生産的でない時間、それが大事。

 最近、思うことがある。それは、何かを始める時には準備運動の時間が必要だということである。

 例えば、文章を書き始めても、主張が散逸してしまって、書いては直してを繰り返す時がある。特に、問いが十分自分のなかに根付いていない時にこれは起こる。「ああ、全く嫌になる。私はなんて無能なやつなのだろう」などという心のつぶやきがキャッチされるのであるが、それでもただ書き続けて直し続けてをある程度粘ってやると、ある瞬間から比較的ましな文章が連続して綴られることがある。まあ、「比較的」であって、文章の質は褒められたものではないわけだけれども。

 このように、エンジンが温まるのを待つというか、そういう時間は何事にも必要であるらしい。そんなことはこれまでの経験でわかっているだろうに、勘が鈍い私は何かを開始すると同時にすぐさまある程度のパフォーマンスを期待してしまうところがある。というか、それができると思い込んでいたらしい。なんという自信家であったのだろう笑。だから成果が現れない、くすぶっているだけの時間は、なんの役にも立たない無駄な時間だと思っていたのだった。その役に立たないように思われる、何も生まれて来ない時間。いわゆる生産的でない時間。実はこれこそが大切な時間であるのに。

 何も生まれて来ないけれど、生まれてくることを願ってただやる。そして願いすら忘れてやっているとき、自ずから現れることがあるよね、ということである。黙って、忍耐して、何も生まれて来なくても留まり続ける素養、これも大事だ。

 よい週末をお過ごしください。

 下は去年の写真。

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Terry on Instagram: “これは...#菖蒲 #あやめ #カキツバタ ...どれ?”