苦しみをアイデンティティにしないこと

私は幸せになろうとしているのか。そう意識するようになったのは昨年末からである。

 
 
 
View this post on Instagram
 
 
 

A post shared by Terry (@teruhiko007)

私は「一切皆苦」であるとか「人生とはそんなものだ」とかよく言うのだが、これは紛れもない真理であると今も思う。「苦」なんてものは、わざわざ遠くまで探しにゆかなくても、そこら中に溢れている。

例えば、身体感覚をじっと見つめると、徐々に「微細な感覚」として感じられるようになってくる。どんなに心地よい状態であったとしても、その感覚は「微細な痛み」あるいは「微細な苦しみ」のようなものとして見えてくる。ああ、些細なことですら「苦」なのであるなあ…と思ったものである。生老病死が苦であるというのは、やはり紛れもない事実である。

しかし、苦というのは、「苦」のそれ以上それ以下でもない。ただ苦であるという事実に過ぎない。それはそういうものである、というだけで、規範ではない。つまり、一切皆苦であるのであって、一切皆苦でなければならないというわけではない。

ところが、私は「修行」という営みを遂行してゆく上で、そうした「修行する自分」を保持してゆく上で、どうやら「苦」を規範として、また自らのアイデンティティのようにしてしまっていたようなのである。

ある方から、「本田さんは幸せになろうとしていない」と言われてハッとしたのであった。苦しみを抱える存在としての自覚によって、それを原動力として行に向かう。それはよいのだが、自分から進んで苦しみを抱え込むことはない。ましてや、わざわざ遠くまで探しにゆかなくてもよいのである。幸せであってもよいのである。そして先日、ある学生から「明るいスピリチュアルケアもあっていいと思う」とコメントをもらった。ああ、染み出してしまっていたのだ…と思った。

せっかく「陽彦」という名前をつけてもらったのである。わざわざ「陰彦」になる必要はないだろう…苦笑。まあ、10年以上もかけて作り上げてきた傾向性はそう簡単には抜けきれないだろうが、少しずつ、幸せになってゆきたい。そう思うのである。

健やかで危険がなく、心やすらかに幸せであれかし!