東風解氷

 こんにちは。昨日の朝、エレベーターホールを抜けてゆく風に、春の成分を感じました。花粉症でくしゃみが出たわけではないです笑

 七十二候は黄鴬睍睆ですが、ちょっと遅れて春風に出会いました。

 なんと申しましょうかね、春がまだ冷たい風の中にしっかりと宿っているという感じです。春夏秋冬、この国の季節は移ってゆきますが、冬の中にあっても春への歩みは常に進んでいるのですね。しみじみと感動しました。歩きつつ、桜の枝を見てみますと、花を咲かせる準備が整いつつあるのがわかります。静かに見える様でありながら、とても動的な営みです。世界の奥行きを感じました。

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能古島にて

 写真は昨年、師匠を訪ねて能古島に行った時のもの。今年は桜の開花が早いかもしれませんね。

 健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!

ありがとう。

 こんにちは。立春ですね。みなさん昨日は豆まきしましたか?

 先週は慌ただしい日々が続きました。忙しい時こそ、一息つくことが大切です。

 それにしても、人生はいつどこで何が起こるかわかりません。生老病死に直面する時、人生の短さを痛感します。その度に「私は、今、これをやっていてよいのか。これがなすべきことなのだろうか」と、自問が連続します。

 先日、私の祖父母と60年以上の間柄である方が亡くなりました。頭の回転が凄まじくはやく、常に明るく、面白く、闊達な方で、私は大好きでした。手先が器用で、「柳川まり」を作るのがとても上手でした。入院先からの年始の電話では「また鯉を食べに行こうね」と話していたのですが、かないませんでした。

 

 「病院は何もなかけん、出前ばとるけん あんしゃん婆ちゃんたちと出て来んね」「歌うとば聞こうごたるばってん、出られんもんね」

 「また来年元気になって迎えに行くけんね」と私は電話を切りました。

 

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 おばちゃんの葬式で弔吟をあげることになるとは思わんやったよ。鯉も食べないかんやったのに。鞠作った小遣い銭で電動自転車買って、まだ元をとっとらんやろ。向こうで思う存分乗らやんたい。あんまりおじちゃんをもがうといけんよ。

 今まで、うちのじいとばあ、その娘たちを可愛がってくれてありがとう。

 初めて会った時、おばちゃんが「あんしゃん、仲良しなろい!(「アッシー君になって」の意味)」と言ったのも忘れていませんし、最後にお見舞いに行ったとき「おろ、どこの紳士が来たじゃかと思った」と相変わらずの切れ味を見せてくれたことも忘れません。

 さげもんを見るたびに、きっとおばちゃんの噺を思い出します。どうぞ、みんなを見守ってあげてください。たまには私を笑わせに来てよ。

 寂しいかも知らんけど、うちのじいばあは、まだまだ楽しく暮らしそうです。笑 賑やかに、朗らかに、やっていきます。

 

 健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!

やっぱり田舎がいい

 おはようございます。

 昨日、昼間は暖かかったですが、夜は冷えました。今朝も冷えております。

 昨夜はなかなか寝付けず、コンパッションのエクササイズをしながら布団の中で過ごしておりました。しばらくすると、身体が徐々に緩んでゆき、意識が眠りの中へと溶けてゆこうとしていることを感じながら、間も無く眠るのだなと思っておりました。

 すると、突然、パトカーのサイレンが耳に飛び込んでくるではありませんか。福岡の3号線名物、暴走族であります。もう2時くらいですよ。一気に眠りから離れてしまいます笑。

 私は週末に実家へと帰っていますが、街から少し奥まったところですので、比較的穏やかです。サイレンの音などは滅多に聞きませんし、夜に途中で起こされることもありません。平和です。

 福岡の夜は、ネオンや街頭で明るいですが、実家周辺には街頭もあまりなく、ネオンはパチンコ屋さんくらい。もちろんパチンコネオンも夜はお休みです。

 そんなことを布団の中で思っていますと、私はやっぱり田舎が好きだなと思いました。都会でも、みんなが休んでいる時間くらいは、どうか静かにしていただきたいものです。

 近頃、どうも人間的になってきた気がします笑。コンパッションのエクササイズを集中的に行うようになって、自分の中にある気づいてもらえない悲しみ、怒り、絶望、憂い・・・様々なエネルギーに遭遇します。ああ、きつかったね。そこにいていいよ・・・と心のスポットライトを優しく向けながら呼吸していますと、いろいろ感じることが多いです。

 今朝も寒いです。あたたかくしてお過ごしください。

 健やかで、危険がなく、心やすらかに、幸せであれかし!

甘酒っていいよね

 こんばんは。

 今日は一日中家の中で作業をしていたのですが、インターホンが鳴って外へ出てみたら、なんと雪が降っているではありませんか(もう夕方)!そして寒い!

 福岡で雪が降るのは珍しいので、少し外に出てみようかと思ったのですが、あまりにも薄着だったので一度引っ込みました。

 私寒がりでして。私はいつも「寒っ!!」を連発しているらしく、「本田さんは本当の寒さを知らない。寒いところに行ったほうがいいです」と友人(中国の南の方からの留学生)からよく言われます。ちなみに、この方はいつも薄着(3枚くらいよ。絶対寒いでしょ!?)。でも、裏起毛だからあたたかいんだよと、トレーナーのお袖を裏返して見せてくれます。

 ところで、私は一昨年の冬から、ユニクロのとっくりをヘビロテしております。安いし、綿100だし、なかなかいいんですよ。私は余所行きにもこれを着るのですが、なんと母が寝巻きにしていることが判明!(というか、前から知ってたんですけど、暴露するのは初)みなさん、どう思われますか!!私の余所行きですよ!?

 枕が長くなりましたが、もれなく今日もユニクロとっくりを着ておりましたので、このままでは流石に寒かったのです。雪を見たら余計に寒く感じるわけでして、衣裳部屋から随分着ていないモンベルのフリースを引っ張り出してきました。黒色なので、どうしても埃が目立ちます。そこでコロコロ粘着シートでお手入れし始めたのはいいのですが、念が入りすぎまして、綺麗になる頃には、雪のことなどすっかり忘れてしまい・・・。

 思い出した頃には、外はすっかり暗くなってしまっていたので、悔しいので(何が)甘酒を温めて飲むことにしました(ようやく表題に辿り着いた)。甘酒って温めるとより甘く感じますよね。冷たいまま飲むと、甘酒の種類の違いを感じますが、温めると違いが目立たなくなる気がします。最近ホット甘酒にはまっております。生姜をすって絞って入れてみても美味しいです。

 それでは、よい週末をお過ごしください〜!

 健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!

狸ばやしさんでの舞台を終えて

 こんにちは。前回の記事(下)で心配していた舞台、狸ばやしさんでの公演が無事に終わりました。

 

teruteru007.hatenablog.com

  結果から申しますと、私の不安は杞憂に終わりました。今回、私たちは多くのことを学ばせていただいたのですが、それは全てみなさまのおかげさまです。心より感謝申し上げます。

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桂よね吉・そうば師匠と

 これまで私は、自身の芸道の内面性により多く心を向けてきたように思います。それは修道として欠かせないことであります。

 しかし、内面性の研鑽・探究と同じくらい、舞台における他者性も重要であることを改めて学びました。実感を伴った形の学びという意味では初めてなのかもしれません。

 舞台というのは、演者と観客との間に成立する出来事である。これは当然のことではありますが、本当にそうなのですよね。

 

 それに加えて、舞台を設定する人、今回はお席亭である狸ばやしの宮原さんの存在が大きかったです。宮原さんとは、一昨年の西日本吟詠吟士権大会で取材をしていただいた事がご縁でお付き合いをさせていただくようになりました。

 インタビューに際して、私が吟詠に対して考えている事、自分の修行のこと、研究のこと、生い立ち・・・諸々のことを丁寧に聞き出してくださり、お話しをする事が出来ました。プロでいらっしゃいますので当り前でしょうが、安心して話すことのできる雰囲気があり、そのような場を自然と展開されるご様子を対面で拝見しました。その頃、ちょうどセラピーの参与観察やヒアリングをしていた私にとって、大変勉強になったことを覚えています。

 

 そんな宮原さんが私達兄弟をご自身の寄席に呼んでくださったのが今回の舞台であったわけですが、私たちの公演前に、お席亭自ら紹介をしてくださいました。私たちは噺家のお二人の前に舞台に立たせていただいたのですが、「若い兄弟が一生懸命に取り組んでいる」「詩吟には難しい言葉も出てくるが、そのままに聴いていただくだけで十分」とお客様に伝えてくださったのです。そのお声の思いやりに満ちているのを感じ、とても嬉しかったです。自分の信頼を寄せる方から、このように紹介していただくのを耳にするだけで、なんだか力が湧いてきます。

 そして、私たちが舞台に立ちますと、お客様の様子もあたたかで、受け容れてくださっているように感じられ、おかげさまで、安心して吟ずる事が出来ました。

 舞台に限らず、物事に臨む時に、自分の中心が安定していることはとても大切です。

 演者が安心して芸を展開できる場を設定する。舞台における他者性。しっかりと学ばせていただきました。

 私は思うのです。もし観客を前にして安心を感じる事が出来なかったら、どうであっただろうか、と。それでも、おそらく、私は同様の学びをうる事ができたであろうと思います。しかし、その場合は挫折感、あるいは一時的な負の感情を伴うものであったでしょう。それはそれで、良い学びであることには変わりないのです。

 でも今回は、喜び、感謝、安心・・・とてもよい気持ちで舞台を終える事が出来ました。同じ学びを得つつ、私たちに気持ちよく舞台を後にしてもらう。そんなお席亭の優しいお心を感じたのでした。もっとも、落語を聴きに来るお客様に心ないお人はいらっしゃらないのかもしれませんけれども。。。

 

 また、落語家のお二方、桂よね吉・そうば師匠の高座を拝見し、言葉にならない「より以上のこと」を感じる事ができました。昨日はそれを観察し、一晩寝かせてみたのですが、言葉にしてしまうと感じた事が覆われてしまう気がするので、今は書かないでおこうかと思います。

 そして、それを私以上に感じたのはおそらく弟です。楽屋に戻って泣いておりました。その様子を見て、「ああ、色々あっても恭裕は大丈夫だな」と直感しましたし、同時に嬉しくなりました。インドネシアに行ってしまう前に、この機会をいただけて有り難かったです。ありがとうございました。

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 最後に、着物姿の師匠方との写真を一枚。別のカメラを見てますが笑。

 

 健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!

吟道ー観照的実践としての吟詠ー

こんにちは。

狸ばやしさんでの落語会が近くなりました。1月20です。今回の舞台は私たち本田兄弟にとって今までとは少し違っています。どことなく緊張しているのです。

といいますのも、これまでの舞台は、吟詠や剣詩舞のみ、あるいはそれらを中心に構成されていることがほとんどでありました。ですから、お客様のほとんどが吟剣詩舞にご関心をお持ちの方々です。

しかし今回は違います。お客様のほとんどが落語に興味をお持ちなのです。吟剣詩舞を知らないという方も多いのではないであろうかとも予想されます。いわゆる、アウェーでやる、というやつです(汗)

 

私たちは、これまでエンターテイメントとして捉えられがちになった芸道・吟道を、「道」に立って再検討することを行ってきました。そして、芸道というのは、単なる娯楽に留まるものではなく、(元来)修行と密接不可分であり、それこそが吟道の本分であるという信念を確立したのです。

そこで、吟詠を観照的実践として位置付けることで、人間生成と超越をその本分とし、修習を重ねてまいりました。この場所に立ったとき、そこに私心や執着、「よく見せよう」というような計らいは放擲されている(べきである)のであり、聖者の言うところの無心(の営み)が立ち現れる(ことを待つ)のであります。

 

このような流儀に私たちが至った背景には、私の内的な体験が関係しているのですが、これを述べると長くなりますのでまたの機会にしたいと思います。

 

ところで、このような姿勢で吟道を修するとき、1つ大きな葛藤が生じることを認めなくてはなりません。それは、舞台の娯楽性を否定してしまうかどうかという問題です。理論的には、否定する必要はないというのが私の見解ですが、実践的にはやはり一度否定する形で修習に取り組むことが私にとっては要求されるというのが実際であります。実は、この点でコンクールに取り組む際に私は大きな困難を感じるのです。

 

さて、私は今回の舞台においても同じ種類の困難を抱えています。吟に馴染みのないお客様を前に、無心の立場、観照的実践としての吟詠を披露する。これは変わりません。しかし、心のうちに、「吟詠を知っていただき、関心をもっていただく」ことを欲するところを見るのです。私は自身の追究する吟のあり方を否定される(と私が感じてしまう)ことを恐れているのです。

 

私が考えるに、この舞台の娯楽性と修行性というのは相互排他的ではおそらくありません。吟詠の(あえて書きますが)観照的実践、修行錬成のなかに自ずから「娯楽性」も生じてくるでありましょう。しかし、注意せねばならないと私が思うのは、ここで言う「娯楽性」は、もはや我々が以前に言っていたところの娯楽性とは質的に異なるものであるということです。

私の独見で言えば、「(修行)以前の娯楽性」は、「欲望に根ざした快楽」に近いところがあります。一方で、「以後の‘娯楽性’」は、「欲望から一定程度あるいはほとんど解放された‘娯楽性’」です。言い切ってしまえば、欲望を原動力としない芸。

このような流儀の吟が受け入れられるのかどうか不安に思っているようです。いかなるものであれ、それが真の芸であれば、それでだけでよいのですがね。

 

しばらく内省しますと、どうやら私は聞き手を信頼していないようであるということに行き着きました。修行であれ、研究であれ、私は内面性への比重が大きいことを自覚しておりますが、吟道においても外へ向けての舞台のあり方に対してあまり考えてこなかったのだなぁと気がつきました。

このように頭でもって考えていますと、いよいよ有心の吟一直線です。すべてを信じて、投げ入れて、当日に臨むことにします。新しい課題ができました。

 

そういえば、筥崎宮に行ってきました。電子案内板ができておりました。時代ですな。検索スペースはディスプレイのなかで自由に移動できる仕様にしたほうがよりよいですね。身長が低い人にとっては難しそうに感じました。f:id:teruteru007:20190118171919j:imagef:id:teruteru007:20190118171930j:imagef:id:teruteru007:20190118171941j:image

 

人間的な部分も忘れずに

 こんばんは。

 

 今日は一日、曇り空でした。こんな日、私はなんとなく心も曇りがちです。今日は叔母と久しぶりに話したのですが、最近の私は、自分の人間的な部分を見てあげていなかったなあ…と思いました。

 「真理の追究」なんて、格好の良いことをライフワークにしている気になっていますと、気がつかないうちに人間的と書いたような諸々の事柄ーー感情、欲求、感情に原動力を持つ思考などーーを、まるで下等なものであるかのように見なしている事があります。自覚しているつもりでしたが、またやってしまいました。これの繰り返しです笑

 真実へ向かうためには、それに耐えうる「しなやかで強さを持った自我」を育ててあげないといけないなと、意識しているのですけれどね。まだまだです。

 そんなことしていると風邪をひいてしまっていたり、体調を崩したりして、否応なしに生体的な現象に意識させられる事が起きるんですよね。まるで、身体が教えてくれているかのようです。身体にできる限り優しく意識を向けてみると、いろんなことをそこで感じているんだということに驚きます。

 ヨーガで身体も帰ってきたことですし、一つ一つしっかりやっていこうと思います。

 今週もよい1週間になりますように。

 

 あっ、この記事が100個目なんだそうです。なんだか内容的にもいい感じです。

 

 健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!