吟道ー観照的実践としての吟詠ー

こんにちは。

狸ばやしさんでの落語会が近くなりました。1月20です。今回の舞台は私たち本田兄弟にとって今までとは少し違っています。どことなく緊張しているのです。

といいますのも、これまでの舞台は、吟詠や剣詩舞のみ、あるいはそれらを中心に構成されていることがほとんどでありました。ですから、お客様のほとんどが吟剣詩舞にご関心をお持ちの方々です。

しかし今回は違います。お客様のほとんどが落語に興味をお持ちなのです。吟剣詩舞を知らないという方も多いのではないであろうかとも予想されます。いわゆる、アウェーでやる、というやつです(汗)

 

私たちは、これまでエンターテイメントとして捉えられがちになった芸道・吟道を、「道」に立って再検討することを行ってきました。そして、芸道というのは、単なる娯楽に留まるものではなく、(元来)修行と密接不可分であり、それこそが吟道の本分であるという信念を確立したのです。

そこで、吟詠を観照的実践として位置付けることで、人間生成と超越をその本分とし、修習を重ねてまいりました。この場所に立ったとき、そこに私心や執着、「よく見せよう」というような計らいは放擲されている(べきである)のであり、聖者の言うところの無心(の営み)が立ち現れる(ことを待つ)のであります。

 

このような流儀に私たちが至った背景には、私の内的な体験が関係しているのですが、これを述べると長くなりますのでまたの機会にしたいと思います。

 

ところで、このような姿勢で吟道を修するとき、1つ大きな葛藤が生じることを認めなくてはなりません。それは、舞台の娯楽性を否定してしまうかどうかという問題です。理論的には、否定する必要はないというのが私の見解ですが、実践的にはやはり一度否定する形で修習に取り組むことが私にとっては要求されるというのが実際であります。実は、この点でコンクールに取り組む際に私は大きな困難を感じるのです。

 

さて、私は今回の舞台においても同じ種類の困難を抱えています。吟に馴染みのないお客様を前に、無心の立場、観照的実践としての吟詠を披露する。これは変わりません。しかし、心のうちに、「吟詠を知っていただき、関心をもっていただく」ことを欲するところを見るのです。私は自身の追究する吟のあり方を否定される(と私が感じてしまう)ことを恐れているのです。

 

私が考えるに、この舞台の娯楽性と修行性というのは相互排他的ではおそらくありません。吟詠の(あえて書きますが)観照的実践、修行錬成のなかに自ずから「娯楽性」も生じてくるでありましょう。しかし、注意せねばならないと私が思うのは、ここで言う「娯楽性」は、もはや我々が以前に言っていたところの娯楽性とは質的に異なるものであるということです。

私の独見で言えば、「(修行)以前の娯楽性」は、「欲望に根ざした快楽」に近いところがあります。一方で、「以後の‘娯楽性’」は、「欲望から一定程度あるいはほとんど解放された‘娯楽性’」です。言い切ってしまえば、欲望を原動力としない芸。

このような流儀の吟が受け入れられるのかどうか不安に思っているようです。いかなるものであれ、それが真の芸であれば、それでだけでよいのですがね。

 

しばらく内省しますと、どうやら私は聞き手を信頼していないようであるということに行き着きました。修行であれ、研究であれ、私は内面性への比重が大きいことを自覚しておりますが、吟道においても外へ向けての舞台のあり方に対してあまり考えてこなかったのだなぁと気がつきました。

このように頭でもって考えていますと、いよいよ有心の吟一直線です。すべてを信じて、投げ入れて、当日に臨むことにします。新しい課題ができました。

 

そういえば、筥崎宮に行ってきました。電子案内板ができておりました。時代ですな。検索スペースはディスプレイのなかで自由に移動できる仕様にしたほうがよりよいですね。身長が低い人にとっては難しそうに感じました。f:id:teruteru007:20190118171919j:imagef:id:teruteru007:20190118171930j:imagef:id:teruteru007:20190118171941j:image