甘酒っていいよね

 こんばんは。

 今日は一日中家の中で作業をしていたのですが、インターホンが鳴って外へ出てみたら、なんと雪が降っているではありませんか(もう夕方)!そして寒い!

 福岡で雪が降るのは珍しいので、少し外に出てみようかと思ったのですが、あまりにも薄着だったので一度引っ込みました。

 私寒がりでして。私はいつも「寒っ!!」を連発しているらしく、「本田さんは本当の寒さを知らない。寒いところに行ったほうがいいです」と友人(中国の南の方からの留学生)からよく言われます。ちなみに、この方はいつも薄着(3枚くらいよ。絶対寒いでしょ!?)。でも、裏起毛だからあたたかいんだよと、トレーナーのお袖を裏返して見せてくれます。

 ところで、私は一昨年の冬から、ユニクロのとっくりをヘビロテしております。安いし、綿100だし、なかなかいいんですよ。私は余所行きにもこれを着るのですが、なんと母が寝巻きにしていることが判明!(というか、前から知ってたんですけど、暴露するのは初)みなさん、どう思われますか!!私の余所行きですよ!?

 枕が長くなりましたが、もれなく今日もユニクロとっくりを着ておりましたので、このままでは流石に寒かったのです。雪を見たら余計に寒く感じるわけでして、衣裳部屋から随分着ていないモンベルのフリースを引っ張り出してきました。黒色なので、どうしても埃が目立ちます。そこでコロコロ粘着シートでお手入れし始めたのはいいのですが、念が入りすぎまして、綺麗になる頃には、雪のことなどすっかり忘れてしまい・・・。

 思い出した頃には、外はすっかり暗くなってしまっていたので、悔しいので(何が)甘酒を温めて飲むことにしました(ようやく表題に辿り着いた)。甘酒って温めるとより甘く感じますよね。冷たいまま飲むと、甘酒の種類の違いを感じますが、温めると違いが目立たなくなる気がします。最近ホット甘酒にはまっております。生姜をすって絞って入れてみても美味しいです。

 それでは、よい週末をお過ごしください〜!

 健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!

狸ばやしさんでの舞台を終えて

 こんにちは。前回の記事(下)で心配していた舞台、狸ばやしさんでの公演が無事に終わりました。

 

teruteru007.hatenablog.com

  結果から申しますと、私の不安は杞憂に終わりました。今回、私たちは多くのことを学ばせていただいたのですが、それは全てみなさまのおかげさまです。心より感謝申し上げます。

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桂よね吉・そうば師匠と

 これまで私は、自身の芸道の内面性により多く心を向けてきたように思います。それは修道として欠かせないことであります。

 しかし、内面性の研鑽・探究と同じくらい、舞台における他者性も重要であることを改めて学びました。実感を伴った形の学びという意味では初めてなのかもしれません。

 舞台というのは、演者と観客との間に成立する出来事である。これは当然のことではありますが、本当にそうなのですよね。

 

 それに加えて、舞台を設定する人、今回はお席亭である狸ばやしの宮原さんの存在が大きかったです。宮原さんとは、一昨年の西日本吟詠吟士権大会で取材をしていただいた事がご縁でお付き合いをさせていただくようになりました。

 インタビューに際して、私が吟詠に対して考えている事、自分の修行のこと、研究のこと、生い立ち・・・諸々のことを丁寧に聞き出してくださり、お話しをする事が出来ました。プロでいらっしゃいますので当り前でしょうが、安心して話すことのできる雰囲気があり、そのような場を自然と展開されるご様子を対面で拝見しました。その頃、ちょうどセラピーの参与観察やヒアリングをしていた私にとって、大変勉強になったことを覚えています。

 

 そんな宮原さんが私達兄弟をご自身の寄席に呼んでくださったのが今回の舞台であったわけですが、私たちの公演前に、お席亭自ら紹介をしてくださいました。私たちは噺家のお二人の前に舞台に立たせていただいたのですが、「若い兄弟が一生懸命に取り組んでいる」「詩吟には難しい言葉も出てくるが、そのままに聴いていただくだけで十分」とお客様に伝えてくださったのです。そのお声の思いやりに満ちているのを感じ、とても嬉しかったです。自分の信頼を寄せる方から、このように紹介していただくのを耳にするだけで、なんだか力が湧いてきます。

 そして、私たちが舞台に立ちますと、お客様の様子もあたたかで、受け容れてくださっているように感じられ、おかげさまで、安心して吟ずる事が出来ました。

 舞台に限らず、物事に臨む時に、自分の中心が安定していることはとても大切です。

 演者が安心して芸を展開できる場を設定する。舞台における他者性。しっかりと学ばせていただきました。

 私は思うのです。もし観客を前にして安心を感じる事が出来なかったら、どうであっただろうか、と。それでも、おそらく、私は同様の学びをうる事ができたであろうと思います。しかし、その場合は挫折感、あるいは一時的な負の感情を伴うものであったでしょう。それはそれで、良い学びであることには変わりないのです。

 でも今回は、喜び、感謝、安心・・・とてもよい気持ちで舞台を終える事が出来ました。同じ学びを得つつ、私たちに気持ちよく舞台を後にしてもらう。そんなお席亭の優しいお心を感じたのでした。もっとも、落語を聴きに来るお客様に心ないお人はいらっしゃらないのかもしれませんけれども。。。

 

 また、落語家のお二方、桂よね吉・そうば師匠の高座を拝見し、言葉にならない「より以上のこと」を感じる事ができました。昨日はそれを観察し、一晩寝かせてみたのですが、言葉にしてしまうと感じた事が覆われてしまう気がするので、今は書かないでおこうかと思います。

 そして、それを私以上に感じたのはおそらく弟です。楽屋に戻って泣いておりました。その様子を見て、「ああ、色々あっても恭裕は大丈夫だな」と直感しましたし、同時に嬉しくなりました。インドネシアに行ってしまう前に、この機会をいただけて有り難かったです。ありがとうございました。

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 最後に、着物姿の師匠方との写真を一枚。別のカメラを見てますが笑。

 

 健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!

吟道ー観照的実践としての吟詠ー

こんにちは。

狸ばやしさんでの落語会が近くなりました。1月20です。今回の舞台は私たち本田兄弟にとって今までとは少し違っています。どことなく緊張しているのです。

といいますのも、これまでの舞台は、吟詠や剣詩舞のみ、あるいはそれらを中心に構成されていることがほとんどでありました。ですから、お客様のほとんどが吟剣詩舞にご関心をお持ちの方々です。

しかし今回は違います。お客様のほとんどが落語に興味をお持ちなのです。吟剣詩舞を知らないという方も多いのではないであろうかとも予想されます。いわゆる、アウェーでやる、というやつです(汗)

 

私たちは、これまでエンターテイメントとして捉えられがちになった芸道・吟道を、「道」に立って再検討することを行ってきました。そして、芸道というのは、単なる娯楽に留まるものではなく、(元来)修行と密接不可分であり、それこそが吟道の本分であるという信念を確立したのです。

そこで、吟詠を観照的実践として位置付けることで、人間生成と超越をその本分とし、修習を重ねてまいりました。この場所に立ったとき、そこに私心や執着、「よく見せよう」というような計らいは放擲されている(べきである)のであり、聖者の言うところの無心(の営み)が立ち現れる(ことを待つ)のであります。

 

このような流儀に私たちが至った背景には、私の内的な体験が関係しているのですが、これを述べると長くなりますのでまたの機会にしたいと思います。

 

ところで、このような姿勢で吟道を修するとき、1つ大きな葛藤が生じることを認めなくてはなりません。それは、舞台の娯楽性を否定してしまうかどうかという問題です。理論的には、否定する必要はないというのが私の見解ですが、実践的にはやはり一度否定する形で修習に取り組むことが私にとっては要求されるというのが実際であります。実は、この点でコンクールに取り組む際に私は大きな困難を感じるのです。

 

さて、私は今回の舞台においても同じ種類の困難を抱えています。吟に馴染みのないお客様を前に、無心の立場、観照的実践としての吟詠を披露する。これは変わりません。しかし、心のうちに、「吟詠を知っていただき、関心をもっていただく」ことを欲するところを見るのです。私は自身の追究する吟のあり方を否定される(と私が感じてしまう)ことを恐れているのです。

 

私が考えるに、この舞台の娯楽性と修行性というのは相互排他的ではおそらくありません。吟詠の(あえて書きますが)観照的実践、修行錬成のなかに自ずから「娯楽性」も生じてくるでありましょう。しかし、注意せねばならないと私が思うのは、ここで言う「娯楽性」は、もはや我々が以前に言っていたところの娯楽性とは質的に異なるものであるということです。

私の独見で言えば、「(修行)以前の娯楽性」は、「欲望に根ざした快楽」に近いところがあります。一方で、「以後の‘娯楽性’」は、「欲望から一定程度あるいはほとんど解放された‘娯楽性’」です。言い切ってしまえば、欲望を原動力としない芸。

このような流儀の吟が受け入れられるのかどうか不安に思っているようです。いかなるものであれ、それが真の芸であれば、それでだけでよいのですがね。

 

しばらく内省しますと、どうやら私は聞き手を信頼していないようであるということに行き着きました。修行であれ、研究であれ、私は内面性への比重が大きいことを自覚しておりますが、吟道においても外へ向けての舞台のあり方に対してあまり考えてこなかったのだなぁと気がつきました。

このように頭でもって考えていますと、いよいよ有心の吟一直線です。すべてを信じて、投げ入れて、当日に臨むことにします。新しい課題ができました。

 

そういえば、筥崎宮に行ってきました。電子案内板ができておりました。時代ですな。検索スペースはディスプレイのなかで自由に移動できる仕様にしたほうがよりよいですね。身長が低い人にとっては難しそうに感じました。f:id:teruteru007:20190118171919j:imagef:id:teruteru007:20190118171930j:imagef:id:teruteru007:20190118171941j:image

 

人間的な部分も忘れずに

 こんばんは。

 

 今日は一日、曇り空でした。こんな日、私はなんとなく心も曇りがちです。今日は叔母と久しぶりに話したのですが、最近の私は、自分の人間的な部分を見てあげていなかったなあ…と思いました。

 「真理の追究」なんて、格好の良いことをライフワークにしている気になっていますと、気がつかないうちに人間的と書いたような諸々の事柄ーー感情、欲求、感情に原動力を持つ思考などーーを、まるで下等なものであるかのように見なしている事があります。自覚しているつもりでしたが、またやってしまいました。これの繰り返しです笑

 真実へ向かうためには、それに耐えうる「しなやかで強さを持った自我」を育ててあげないといけないなと、意識しているのですけれどね。まだまだです。

 そんなことしていると風邪をひいてしまっていたり、体調を崩したりして、否応なしに生体的な現象に意識させられる事が起きるんですよね。まるで、身体が教えてくれているかのようです。身体にできる限り優しく意識を向けてみると、いろんなことをそこで感じているんだということに驚きます。

 ヨーガで身体も帰ってきたことですし、一つ一つしっかりやっていこうと思います。

 今週もよい1週間になりますように。

 

 あっ、この記事が100個目なんだそうです。なんだか内容的にもいい感じです。

 

 健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!

祖父の誕生日

 こんにちは。

 昨日は祖父の誕生日でした。今年の誕生日は、祖父にとって、祖母にとって、そして私たちにとって特別なのです。f:id:teruteru007:20190114135428j:image

   ちょうど一年前、祖父はひどい腹痛で病院へ運ばれて、誕生日を自宅で祝う事が出来ませんでした。大きな鯛を祖母が買ってきて、ケーキとご馳走を準備していたのですが、祖父は食べる事が出来なかったのです。しかし、そのおかげで病気の早期発見がなされ、不幸中の幸いでありました。ところが、その直後に祖母が骨折し入院して大変でした。(父方の祖父が正月明けから救急搬送されましたので、これで全員入院してしまったのです)

 

 ようやく全員退院したかとホッとしたのもつかの間。六月の私の誕生日に、祖父が高熱と発疹で病院に運ばれました。高熱がきっかけでアルツハイマー型の認知症と診断されたのです。これまでとは違う祖父と、これからどうなってゆくのかわからない状況に不安を覚えながら、祖父と私たちの忍耐の日々が続きました。

 

 入院中、初めて会った時には、せん妄症状が現れ、車椅子に固定されていた祖父に会った私は、驚きと戸惑いに押し流されそうになり、一瞬一瞬の呼吸につかまって踏み止まっていたことを思い出します。

   加えて、長い時間病室に寄り添う中で、医療を取り巻く様々な限界、失望などを目の当たりにしました。自分の修行であり、研究でもあるマインドフルネスをもって、またジョアン・ハリファックス老師の"Being with Dying"を読みながら、ただ祖父のそばにいることを学びました。また、偶然にもアルフォンソ・リンギスの思想に出会い、励まされて、夏までなんとか乗り切る事が出来ました。

 

   祖父が自分自身を用いて、最後の教えを授けているかのように私には思えました。祖父との時間が残りわずかであることを直感しながら、時折涙をお互いに流しながら過ごしたのです。

   そんな時、私の住んでいる団地の自治会長さんらの、思い出づくりになればというお取り計らいによって、祖父は夏祭りに出演することになります。これが祖父の生命に力を吹き込むきっかけとなりました。

   身体を起こすことすら難しくなっていた状態であったにも関わらず、「舞台に立つ」ということを伝えた日から、祖父の目には力が戻ってきたのです。何十年も大好きで続けてきた歌を、もう一度歌うという意志が、祖父に力を与えたのです。

   自分から「稽古する」と言い、身体を横にしたまま声を出します。もちろん息は続かず、何度も息継ぎをしながら歌います。それでも「もう一回、歌う?」と尋ねると、「歌おうかね」とマイクを掴むのです。

   それを続けるうちに、椅子に座って歌えるようになり、一息で歌えるようになり、立ち上がって歌えるようになり、手のふりをつけて歌えるようになり、、、と、私はそばで見ていながら喜びと驚きに包まれていました。

   そして、ついに夏祭りの舞台に立って、無法松の一生を歌い上げたのです!!!私は涙をこらえることができませんでした。好きなことの力、歌の力、そして何より、祖父を思う皆の心が、祖父のたましいを繋ぎとめたのだと感じました。

   寿命というものは、やはりあるだと思いますが、慈悲によって、愛によって、それは変わるのだと今の私は感じています。私はそれを目の当たりにしたのですから。

 

   そんな祖父が年を越し、85歳の誕生日を迎えました。私たち皆にとって特別な日となりました。一緒に食卓を囲み、同じご馳走を食べることのできる幸せを、これ以上ないほどに味わいました。

   「ありがとう」と涙声の祖父に、私たちは力を授けられたように感じます。このひとときを味わうことができるなんて、なんという幸せであろうか!心のそこから喜びが溢れてきました。

   善哉善哉!じいちゃん、お誕生日おめでとうございます。また一緒に舞台に立ちましょう。

 

   健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!

スマホと写真と成長と。

 こんばんは。

 今日は何気なく、家族と一緒にスマートフォンの写真を遡って見ておりました。iPhoneを使うようになった2012年くらいからの写真が保存されています。発売当初は8GBか16GBのストレージでしたよね。

 私は、iPhone4のホワイトモデルが出てすぐに購入し、これが初iPhoneでした。当時は32GBか64GBくらいだったのが、現行モデルでは256GBー512GBまでに増えているのですから驚きますね。私のPCのストレージが512GBですから、PCのSSDスマホのバックアップを取ってしまうと、それだけで容量が圧迫されてしまいます笑。

 さて、写真を見返しておりますと、「この頃はまだ若かった」「この頃はまだ痩せていた」「最近になるにつれて顔つきが変わってきた」などコメントが飛んできます。特に、弟の写真を見ていますと成長しているのを感じます。

 2012年はまだ中学生であった弟が、今では大学生。この7年間で心身ともに成長しています。今年は弟にとって大きな変化の年となります。きっと私が羨むような変容を遂げて帰ってくるだろうと思います。楽しみです。

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本田兄弟 2014ver.

 健やかで、危険がなく、心やすらかに、幸せであれかし!

帰ってきた身体

こんにちは。帰ってきたウルトラマンみたいなタイトルです笑

インフルエンザが流行っているみたいですね。皆さんお元気ですか?私は少し声が出るようになったものの、まだまだくすぶっています。

 

今日は4ヶ月ぶりにヨーガの修習に行ってまいりました。久しぶりに行じますと、ああ、しばらく私は身体を失くしていたんだな〜と感じました。

1時間半ほどかけて、身体が徐々にかえってきました。おかえり、私の身体。

 

気をつけているんですけどね、いつのまにか身体が自分のもの(まあ、この表現も問題ですが)ではなくなってしまっているんですね。とくに、概念を扱う研究と修行の両立というのは、今の私にとっては難しい。うまく折り合いがつくようになるのかな、、、。どうかな。

 

ヨーガの修習の後、待ち合わせまでの時間を使って記事を書いています。これが隙間時間というやつか。

 

健やかで、危険がなく、心やすらかに、幸せであれかし!