吟剣詩舞道について 花まつりに思うこと

 コロナウイルスの影響で、吟剣詩舞の各種コンクールや舞台が中止になっている。4月号の『吟と舞』(公益財団法人日本吟剣詩舞振興会が発行している吟剣詩舞道についての記事をまとめた雑誌)にも中止と延期を知らせる紙が挟まっていた。

 コンクールや舞台を芸道の楽しみとしている吟剣詩舞愛好家にとって、この事態は大変残念なことである。芸をやっていると自分の芸は観られてナンボであると思うし、観客からの評価の声がさらに芸に打ち込んでゆこうではないか!という意気込みを強くしてくれる。披露し、評価を得る機会があるからこそ、芸の「技」はますます光り輝いてゆくというものであろう。縁ある方々の投稿に「何のために稽古をしてきたのだろう」、「稽古へのモチベーションをどうしてゆけばよいのだろうか」という落胆の声が多いのも頷ける。

 私も吟詠家として活動しているわけであるから、もちろん今年のコンクールにエントリーしていたし、舞台やコンサート企画について思案していたので、正直なところ「おい、まじか」という気分になっていた。ただ、それは「キャンセルに伴う諸々の事務手続きなどの煩雑さについて」の「おい、まじか」であって、「吟剣詩舞のイベントがなくなって悲しい」という種類の「おい、まじか」ではなかった。

 これだけ書くと、「何と不真面目な吟詠家なのだろうかコイツは」という印象を与えてしまいそうであるが、実際のところ、それはある程度本当で、私はそれほど人前でのパフォーマンスに情熱を燃やしているわけではないのだろう。これは情熱がないという意味ではなくて、言ってみれば別の質の情熱を吟道に対して持っているということの現れであると私は思っている。

 端的に言えば、私の場合は吟剣詩舞道を行ずることそれ自体が喜びなのであって、芸の披露や他者からの評価はそれほど気にならないようになってしまったということである。じゃあ、どうしてコンクールやコンサートをやっているのかと言えば、「ただ、それが愉しいから」ということになる。やや極端に言い切ってしまったけれども、大まかにはそういう感覚なのである。

 おそらく、これまでのところ吟剣詩舞界でこのような語りがなされることは稀であっただろう。しかし、舞台やコンクールの中止が決定した現在、コンクールや舞台を吟剣詩舞道への動力とすることが(一時的とはいえ見通しの立たない間)不可能になってしまった現状において、別のあり方を提示しておくことは、それなりに役に立つのではないかと思うのである。

 このような心の風景に通じる、吟剣詩舞道(とりわけ吟道:吟詠家なので)に対する私の態度を「観照的態度」と呼び、その態度で吟道に関わることを「観照的実践としての吟道」などと私は言っている。

 「観照的実践としての吟剣詩舞道」とは、フランクに言えば、「吟剣詩舞についての学びの過程や実践そのものを喜びとしながら、そこから開けてくる日常生活と、吟剣詩舞の与える影響が織り込まれた日常生活を、いい感じに生きてゆくこと」である。

 うーむ、これでもわかりにくい。もっと具体的に見てゆくために、稽古における経験の一コマを切り取ってみよう。例えば発声練習。素読に並び、稽古の「基礎」として位置づけられている場面である。

 基礎とはいえ、声を出すこと一つとっても、実に豊かな経験である可能性がある。「あー」と声を出しつつ、発声している時に生じている身体感覚に心を丁寧に配ってみる。舌の位置、息の流れ、顔の緊張、腹部の収縮…。意識に特に強く上ってくる感覚があるだろう。それぞれについてしっかり味わってゆくと、いろいろな洞察が生じてくるかもしれない。

 例えば、昨日発声した「あー」と、今発声している「あー」の感覚とが異なっていることに気がつくかもしれない。昨日の「あー」の発声と同じ調音点(舌の位置や口の中の形)で発声しているように思えるのだが、今出ている「あー」は狙った通りの質の発声ではないと気がつくかもしれない。「えっ?どうして?」と戸惑う心がうわ〜っと溢れ出てくるかもしれないし、そうすると調音法(息の流れなど)が乱れてくるだろう。

 そこで、「これはいけない!」と気を取り直して、調音点を探ってみる。舌をわずかに動かしながら、狙っている理想の響きの質、「あー」の位置を探る。しばしの試行錯誤の末に狙った「あー」が現れる!かもしれない・・・。

 この一連の取り組みの中で、昨日と今日の自分が違うこと、心の状態の変化が身体に変化をもたらすこと、わずかな筋肉の緊張の具合で響きが大きく変化しうることなど、様々な洞察が得られるかもしれない。

 心が比較的細やかな対象、微妙な筋肉の動きや心身の様相に触れる時、心は細やかに微妙になってゆく。その心の質で吟の稽古に入ってゆき、実践に取り組み、師匠と対話を持ち、稽古を終える。そして、その心と身体を日常生活に持ち込む。日常生活へ入ってゆく。稽古の心身の世界に日常生活が流れ込んでくる。

 その心身で感じる日常は、稽古の影響を確かに受けている。例えば、窓の外の桜の散りゆく光景が、先程見たときとは全く異なった様子で飛び込んでくるかもしれないし、夕食の豆ご飯のなかに生じてくる香りと味にこれまでに見出さなかった何か特別な感覚がありありと発見されるかもしれない。

 このように知覚される世界は、新たな世界であるように感じられるかもしれないし、その世界をしばらく生きて、それから稽古に再突入する時の稽古における心身の風景は、以前の風景とはおそらく異なっているだろう。こうした稽古と日常の往還とは、徐々に互いを深めてゆくだろうし、いつの間にか両者の区別はそれほど明確なものではなくなるかもしれない。

 そうした深まりの中における意識の質は、吟剣詩舞道が扱う詩の了解の仕方にも影響をもたらしうる。これまでの世界観での詩の了解の仕方とは異なる質の了解の仕方が現れるかもしれない。それどころか、「詩の了解」それ自体についての了解という新たな次元さえ立ち上がってくる可能性があると思われる。

 もしかすると、これまでの歴史の中の多くの吟剣詩舞道家の道の修習において、私が記述してきた稽古における経験の風景のようなところは、言うまでもなく当たり前の出来事として経験されてきたのかもしれない。当たり前だから特別に言うほどのことではないね、と。

 ところがその当たり前であることは容易に隠れてしまう可能性が高い。それは他者からの評価という新たな基準が入り込むことによってである。コンクールや舞台の成功のために、“良い”パフォーマンスをすることを強く望む。もちろん成功が大切であるのは言うまでもない。冒頭に書いたように、成功のための、披露し、評価を得る機会があるからこそ、芸の「技」はますます光り輝いてゆくというものである。確かにそうなのだが、成功が大切であるというのは、吟剣詩舞道における一つの側面に過ぎない。

 成功を追求する側面は、稽古や吟剣詩舞道そのものを成功への手段として捉える側面に展開してゆく。そしておそらく多くの場合、この側面は吟剣詩舞道の他の側面、例えば私が上述したところであり、おそらく多くの吟剣詩舞道家に経験されていたかもしれないであろうところのものを覆い隠してしまう可能性が高いのではないかと思われる。

 もちろん、成功が成就する場の出現が確実である場合、取り立てて支障があるようには感じられないだろう。しかし、追求する成功が成就されるはずだと思われていた場が突然姿を消してしまうような場合、すなわち今日のような状況においては、大きな落胆と意欲の消失をもたらしかねない。この成功追求の側面が吟剣詩舞道の他の側面よりも優勢になり、他の側面を覆い隠していることが続いている場合、吟剣詩舞道がしぼんでいってしまうように思われるのではないだろうか。

 ここで私が言いたいのは、成功追求をやめるべきだ!などということではない。吟剣詩舞道にはそれ以外の側面もあるよね、ということである。略して言うと、ひとまず様々な側面を水平化した上で、それぞれの場面で自分にとってふさわしいと感じる、背中を押してくれるような側面にコミットしてゆくことがよいのではないかということである。

 本記事では、吟剣詩舞道の成功追求以外の側面があることを指摘し、コミットできる他の側面が豊かに存在する可能性を確認した上で、世界(外的・内的環境)の状況やそれがもたらす(今はいくぶん制限された)現実と、自分が大事にしたい価値との相性を考慮した上で、吟剣詩舞道に再突入することを提案した。最後に再度確認しておくべきことは、自分の価値に基づいて選択した側面に従って歩んでいても、その側面だけが吟剣詩舞道のすべてであるということは決してないということだ。その都度変化し現れ続ける状況・文脈に応じて、その都度自分の価値との相性を考慮し、しなやかに選択して道を歩んでゆくことを提案したいのである。

 この記事が今日の吟剣詩舞道家の皆様の苦しみを少しでも取り除き、吟剣詩舞道を豊かにする因縁となれば幸いである。

 花まつりの日に美しい桜を眺めながら。 本田陽彦 拝

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Terry on Instagram: “桜にハチが来ていたよ。頭を突っ込んでる。かわゆい🐝こうやっていのちは関わり合っているんだ。 #桜 #みつばち”