「関わる」ことと、関わりを「停止」すること

 先日の記事に、出来事に関わるか否かを選択する結果としての「複雑さ」vs「後味の悪さ」という話を書いた。

 私の選択のほとんどは「否応無しに」という感じで、選択の余地なく「関わっている」状態にあるか、そうでなければ「出来事として意識されない」くらいの調子で気づかずに素通りしているというのが実際のところである。そしてこの「否応無しに」という感覚は「良心的な何か」に駆り立てられる形でもたらされているようであり、それを「拒否」すると、「後味の悪さ」を当面の間抱え続けることとなる。

 私が関わることを無自覚的に選択してしまっていることについては、これまで「関わらなかったことについての後悔」を経験したという事態の反復が、一つの物語として半ばドミナントに形成されているからだろうと考えることができる。おそらく、その辺りの影響が深く関わっていることは間違いない。とはいえ、そのような物語の形成以前から、「良心的な何か」に突き動かされる感覚は確かにあったなあと覚えているので、その物語は促進要因ではあっても根本的な原因とは言いにくそうである。

 前にも書いた通り、出来事に「関わる」ことを選択することで、関わらないことで生じる「後味の悪さ」は味わわなくてもよくなるものの、それと引き換えに選択した「関わる」ことで生じる「複雑さ」の中で、「後味の悪さ」以上の「嫌な感覚」を結果として味わい続ける場合というのが私においては往々にしてあるのだった。こうなってくると、「ああ、なんで関わったのだろうか」という後悔の気持ちが強くなってくるのであり、「あの時、しっかり見極められていたら…」というような情けなさを感じるのである。

 さて今回は、このあたりについてもう少し深く書いてみたいと思う。上述の通り、私の場合は「見極め」なるものはほとんど挟まれる余地がないという感覚なのだけれども、それでも、「ん、これは…アレな感じがする」という直感によって見極めという猶予が奇跡的に与えられることがあるのも事実といったところである。まあ、そういう場合であれ、多くの場合は「関わる」ことを選択している気がするのだけれども。しかし、今回はここで立ち止まって、この「見極め」や「関わり」についての一連の問題について考えてみたいと思うのである。この面倒な私において起こる現象にどう向き合うのか、という私にしか関係のない(が、もしかしたら読者の皆さんにも当てはまるかもしれない)お話である。

 結論を先に書けば、「関わってしまったものには、とりあえずは関わりつつ、直感的に生じる「見極め」のタイミングで、関わりを停止したり、継続しながら「関わり」についての態度を決めてゆく」、ということになる。

 この直感というのは、言葉にすればまさに「ん、これは…アレな感じがする」というような感覚であり、「これに関わると後々大変かもしれないぞ」という未来を予感させる一種のアレである。そのようなものを受け取りつつも、私は「いや、私はこれを見なかったことにするわけにはいかないんだ!」という正義感溢れる素晴らしい気持ちと思考に飲み込まれて、あれよあれよと関わってしまっている。

 この結果として、「ああ関わってよかったなあ」と思えるようなすっきりした結末と、「うげげげげ」という種類の関わったことを後悔するような結末とがあるのであるが、不思議なことに後者の場合であっても、その後に前者に転ずるということがあるものだから、話は複雑になる。「うげげげげ」となりつつも、それを耐え抜きながら頑張っているとそれが一掃されるような光景がひらけてくるということが起こることがあるのである。この光景を味わってしまうと、「一時的には後悔するかもしれないが、それが過ぎ去ったあとにはきっと良い結果が訪れるだろう」とい救いのシナリオが現れる。そして、このハッピーエンドの物語が「見極め」の際に強く現れ作用しているように私には思われる。

 しかしながら、すべての事例がこのハッピーエンドになるかといえばそういうわけではない。関われば関わるほど泥沼状態になってゆき、ナンテコッタと叫び続けるような場合も少なくない。だがしかし、こんな時でもハッピーエンドの物語の成就を、まだ見ぬ未来の出来事としてさらに願ってしまうことも十分可能であるので、そこでピシャリと見切りをつけることがなかなかできないということが起こりうる。ここで関わりを停止すれば、今の苦しみも停止するだろう。でも、そうすれば、未来に起こるかもしれないハッピーエンドも実現しないだろう。「せっかくここまで関わったんだったら、もうしばらく付き合ってみようぜ」、という囁きが聞こえてくる。

 結局のところ、この囁きに乗っていては終生関わりを停止することはできない。停止が起こる場合は、ハッピーエンドの到来か出来事そのもの消滅によってのみである。自発的に「ピシャリ」と停止することはできない。

 これは、まともに考えればおバカさんのやることである。関わりつつ、自己の何かをずっとすり減らし続けるということは、まともであれば、停止する方が賢いということが誰にでもわかる。にも関わらず、停止できないという自体に陥るということは、ここに何らかの力が関与していると考えたくなってしまう・・・。そしてその力は、ずっと前から働いているように感じられる。

 さて、「見極め」ということについて、思い出されるエピソードが一つある。これは誠に不思議な話で、このことを考えるに際して思い出された話である。私が師匠に瞑想を習って、しばらくして言われたことである。その時師匠は「もう、私が言わなくても、何が善いことで、何が悪いことかがわかりますね。善いことを実践してください」ということを私に告げた。その時は、全くその通りだと思ったことを覚えているが、今考えると、そこにどのような判断尺度が存在しているのか全くわからない。ただ、その時は、「これは全くその通りで、私は善いことを実践して生きてゆこうではないか」と心の底から思ったのである。

 ここで私の直感において、私の関わりを決定づけている「良心的な何か」「何らかの力」そして「何が善いことかわかること」が重なって見えてくる。だが、私は超越的な善、のようなものを思い描いているわけではなくて、何だろう、もっとリアルなセンスである。これは何なのだろうかとやはり不思議に思うが、これはどうにも根深そうであり、無理やり明らかにしようとせず、そのまま残しておく方がよいのかなと今は感じている。

 現実的な話をすれば、関わり続けても一向にハッピーエンドが予感されない類の事柄については、少し「まとも」なあり方の方向で考えて、関わりを停止することが必要になってくるのではないかなと考えるところだ。そして、そこに「後味の悪さ」が立ち上ってきたとしても、「まあ、仕方ない」と「まとも」に考えゆく態度も訓練しなければならないのではないかななどと思うのであった。

 しかし、強烈な縁があれば、停止しようとも再び同じ(ような)出来事に関わらざるを得ないだろうから、二度と関わらないと決め込むよりも、途中まで読んだ本をそっと書棚にしまう感覚で「停止」を選択するしかないだろうなと思うのである。

 

 大変な世の中ですが、皆さんお元気ですか。よい週末を。

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彼の名をご存知だろうか。たいやきである。しかも日本一の。#たいやき