ゴキブリを叩き殺す派ですか?
ゲジゲジやゴキブリなど、身の回りにいると、不快に思われる生き物がいる。
私は彼らを不快だとは思わないが。まあ、そう感じる人もいる、という話である。
人間も同じようなもので、ある人間に対して不快であると感じる人もいれば、そうでない人もいるのである。このあたりは非常に面白い話がたくさん関連しているのであるが、今はそんなことはどうでもよい。
私は、ゲジゲジやゴキブリ(如何にも不名誉な用い方をしているようで両種には申し訳ないが)を野放しにしておく性格である。
彼らを見かける、ということは、私の生活圏内に彼らが生息しているか、彼らの方から私を目がけて飛んでくる(ゲジゲジは飛ばない)か、あるいは、何かについて来きたり運ばれてくる、ということであろう。これは、いかなる理由であれ、私の近くに彼らが生息できるだけの環境が整っているということである。
管見では、人間という横柄な生き物ときたら、彼らを目の敵にして、新聞紙を丸めて追い回したり、スプレーを撒き散らして追いかけたり、、、といったことをする。大変おっかない。
私は、そのような野蛮な人間ではないので、虫をいじめたり殺したりはしない。不殺生戒を守っているのである。これは、戒を守っているから殺さないのか、はたまた優しさに溢れているがゆえに自然と守っているのか、正確なところはわからないが、生き物を殺さないというのは、私の生きる上での約束事である。
野蛮であることをやめた私も、当然、ゴキブリをみて「キャー」と甲高い声を上げることもある。もちろんキモチワルイからだ。しかし、私は野蛮であることを放擲している手前、前途のごとき迫害行為をとることはない。したがって、彼らは私の前から消えることはなく、気の向いたときに、私の目に触れるところにいるし、頼んでもいないのに、食材をあさっていたりする。ときには一緒に車に乗り込むこともあるかもしれない。
私は嫌なのだ。はっきりいって、迷惑している。しかしながら、彼らを追い払うことはできない。虫除けスプレーをふればよいかもしれないが、吸い込んでしまえば、大事な私の喉に害がある。そんなことできるものか。
甘い香りのする、一見すると美味しそうだが、実はお彼岸直行の魔法の顆粒をまいておくこともできたろう。しかし、私はどうしてもそれができないのである。
その結果、彼らは飛び回り、私の記憶の中に常にいる。私のレコードのテーマ分くらいは、彼らの羽音が(くどいようだがゲジゲジは飛ばないのでカサコソという足音)が録音されている。
聴き直すと、まことに、不快である。ノイズとして除去することもできず、ただただ、それを聴き続けねばならない。繊細で感性豊かな耳をもつ私には耐えられない。
私は後悔した。追い払っておけばよかったと。レコードを鳴らすたびに、奴らの羽音が私を悩ませる。まだアドリブソロも始まっていないというのに。聴くのをやめてしまうのだ。
私は、私の作品を愛したい。心から愛したい。何よりも大切に守ってやりたい。
私はどうすればよいのか。
義
目の前で生き物が苦しんでいるのを見たら、その苦しみを取り除いてあげたいと思う。
苦しみが取り除かれて、楽になった姿をみると喜びが生じる。
それは結構だ。
しかし、皮肉なことに、助けた生き物から、のちに苦しみを与えられることもある。
もっとも、苦しむのは、苦しみを感じる主体が、勝手に苦しむのだが。
抜苦与楽されたものは、苦しんでいたころのことを忘れるのだろうか。
生き物は、ひとたび楽を得ると、苦しかったことを忘れるのだろうか。
自分の楽を確立した生き物は、他の生き物を苦しめてもなんとも思わないのか。
人生は、まことに、不条理である。
放生会@筥崎宮
ごきげんよう。本田陽彦です。
昨日から筥崎宮で放生会が行われています。「放生会」は「ほうじょうえ」と読むことが多いようですが、博多では「ほうじょうや」と皆さん読んでいます。なまったのでしょうね。
私は昨日、お参りに行ってきたのですが、初日から参拝者が多かったです。午前中は曇りでしたが、午後からは気持ちの良いほどに晴れていました。
名物の新生姜もならんでおり、私は生姜の砂糖漬けを買いました。薄くスライスしてあり、パリっとした食感で美味しいです。
タッパーに入れておかないと湿気ってしまいます。この文章を書きながら写真を撮りつつ、パクパク笑。美味しい。
あ、そうそう。放生会に行こうと思っていらっしゃる方!コインパーキングには注意ですよ。日頃1時間100円とかの駐車場、このときばかりは値上してますから!!!私が駐めたところは看板の下の方にさりげなく「1時間500円 最大料金なし」と紙が貼ってありました。こういうのって、値上期間は通常の表示を隠すようにして貼るべきだと思うんですよ!まったく、きっっったねぇぜっ!!
皆さんも行ってみてくださいね。
健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!
〈「いのち」〉と〈「いのち」〉のご縁という〈いのち〉
ごきげんよう。本田陽彦です。
今年になって私の周りの様子は少しずつ変わっています。
よいことも、わるいことも起きていますが、きっと全ては必要なことなんでしょう。これまでだってそうです。その渦中にいて、もがき苦しんでいるときはわかりませんが、このように振り返って観察してみると、全ては必要であって、無駄なことは一切ないのだとわかります。
私は幼い頃から、なんとなく、同世代の人たちと一緒にいて、生き苦しいような感覚がありました。同世代でなくとも、一緒にいて苦しい人はいます。これは私が勝手に苦しんでいるわけですが、どうしようもなく、苦しかった。
ところが、今年の夏くらいからでしょうか。とんでもない出会いがたくさんありました。本当にありがたいことです。有り難い。
私は輪廻の世界観でいうならば、きっと過去生で深いご縁があったのだろうなと感じます。その方たちのことを思うと、とっても懐かしくて、あたたかくて、少しさみしくて(なんでだろう)。
人間は70億人以上この地球に住んでいるらしいです。私は全員を見たことがないのでそんなに多い気がしないのですが笑。そんな中から今生、私が出会うことができるみなさまは、きっとこれまでの生でも出会い、お世話になってきたのでしょう。
人生、ほんの少しだけ、ちがった生き方をすれば、出会う人間模様もガラリと変わりますよね。朝電車を一本ずらすとか、別の道を歩いてみるとか、そんなことで。
当初、座る予定の位置に座らなかったために、お隣の方に声をかけていただいき、トントン拍子でご縁を紡いでいただいたり。くじ引きで同じテーブルになり、大勢いるなかからお声をかけていただたり。
初めてお会いしたのに、もうすっかり家族のような気持ちになって。このミラクルとでも言いたくなる(う〜む、論文でこんなことかけません笑)出来事は、やっぱり過去生からのご縁なのでしょう。
このように身の回りの出来事を観察して淨かに坐っていますと、ああ、生きているからこのご縁をいただけたのだなと思えます。人間やめたいと思えども、人間であるからこそ、みなさんと出会えるのだと。この記事を読んでくださるあなた様にもですね。
この こころのあたたかさで、今日の1日を生きてゆくことができます。私には何ができるでしょうか。できることを、できるときに、こころこめて。積むべき功徳を積みます。
健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!
特別な日に、特別な心で書くブログ
ごきげんよう。本田陽彦です。
昨夜、坐っていますと、秋の虫の鳴き声が感じられました。もう秋ですね。
今日は私の母の誕生日です。57歳になりました。我が家の親分です。
小さいころ、母が死ぬ夢をみました。今でもよく覚えています。
母が突然死んじゃった、というところから夢は始まります。もう、悲しくて、何が起こったのかわかりません。そうですよね。まだ幼稚園くらいのときですもの。
もう会えない、いなくなってしまった母を想って、私はずっと泣いていました。一人で泣いていました・・・
すると、見知らぬお姉さんが私に声をかけて背中をさすってくれるんです。全く知らない人。顔も今ではよく思い出せないけれど、背が高くて、変わった服を着ていました。
お姉さんは言います。
「ママは、むか〜しいたところに帰って行ったんだよ。お家に帰って行ったのよ。だから、ママは寂しくないよ」
この言葉を聴いて、夢のなかのチビてるてるは「そうなのか」と。
「家に帰ったのなら別に普通のことだし、悲しくないね・・・でも寂しいな」と思ったそうです。そして泣きました。自分の泣き声で目が覚めました・・・夢でよかった。
この夢のことを思い出すたびに、懐かしいようで、また寂しいようで。不思議な感覚があります。
それから、何年経ったのでしょうね。四捨五入して20年くらいかしら。
今も母はこうして生きていますし、私も生きています。母は常に家族を支えてくれている、本当に太陽のような人です。この人がいなくなったら私たちは生きていけないだろうなと思います。
私は冗談半分、「大金持ちの家に生まれてくる予定だったのにな」なんて言ったりしますけれども、母のもとへ生まれてくることができて心からよかったと思っています。この人の子でよかった。
そういえば、私が夢を見るよりも小さいころだと思いますが、「神様がママのところに行きなさいって言った」と言ったそうです。
神様は私を母のもとへ導いたそうで。う〜ん。母には大きな負担になることをしてくれた神様。ありがとうございました。
私はしばしば人間であることをやめたくなります。けれども、母を見送るまではそばにいないといけないなと思うのです。それだけは、必ず。
今日は特別な日です。私にとっても家族にとっても世界にとっても。だって、母が私を産んでくれたことで、私が生まれて、同時に私の世界が立ち上がってきたのですから。その母が生まれた日は同じくらい特別なのです。
特別な日には特別な心を持って住む。この一日だけは、心を汚さないように、心と身体を自分で守りながら、慈悲喜捨の心を育てることをして生きたいです。
どうぞ、いつにも増して、
健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!
誕生日おめでとう。
味方がいることを忘れずに
ごきげんよう。本田陽彦です。
生きていて、妄想にどっぷり浸かっていると、精神的プロセスの作り出す物語にはまってしまいます。いつの間にか、暴流に押し流されてしまうんです。
そんなとき、私は独りの世界を生き始めます。人間は一人で生まれて、一人で死んでゆきます。これは事実なのですが、心の作り出す物語における「独り」というのは、寂しさや不安、憂いをともなった、事実ではない「孤独」です。
孤独はネガティヴな物語です。とても辛いものです。孤独の物語を生きていると錯覚しているとき、私の世界には他者はいません。もちろん家族もいません。
でも現実には家族がいて、こんな私を支えてくださる縁ある方々がいらっしゃいます。そのことを忘れがちになるんです。失礼ですね。
私には味方がたくさんいる、このことを思い出すと、その瞬間にポジティヴな物語が始まります。物語であることには変わりはないのですが、心はそんなに汚れません。
これほどまでに素晴らしい、尊敬する人々が、妙なる縁によって私と関係している。
このことを常に思い出し、それをもって生きてゆくことができれば、何も怖いものはありません。できないことはない。なんでもできる。エネルギーが湧いてきます。
私には味方がいるんだ。そこに合掌して、今日も精進しよう。この瞬間、心を汚さないように、マインドフルネスによって暴流を堰きとめるのです。
健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!
回向
ごきげんよう。本田陽彦です。
先日、吟道の大先輩がまた一人、旅立ってゆかれました。
私が吟の道に入ったときから、弟と二人、本当に慈しんでいただきました。孫のように可愛がっていただき、「てるひこくん、やっちゃん」とお会いするたびに握手をしてくださった、大きく包み込む手の感触を思い出します。
人生は夢のごとく、また煙のごとし。
葬儀では追悼の吟を師匠と共に捧げました。師は「あなたが可愛がっていた、陽彦と恭裕もここにおります」と先輩に涙を流しながらお声をおかけになりました。
詩吟が大好きで、とてもお上手な方でした。紋付袴で凛々しくお立ちになっているお写真からは、私たちの吟を聴いて「精進しなさい」と語りかけていらっしゃるように感じられました。
私たちが出会ったときには光を失っていらっしゃいましたが、肉体を離れた今、大きくなった私たちの姿を見ていただけたでしょうか。おかげさまで、こんなに大きくなりました。弟と二人、刀をお借りして舞った城山、懐かしいです・・・
人間として生まれて、このように素晴らしい方々とご縁をいただけたことに、心から感謝いたします。厳格ながらも柔和であり、皆に慈しみのお心を向けていらっしゃったお姿に尊敬合掌いたします。
私の積んだ功徳を、今生を終えられた大先輩に回向いたします。回向、回向、回向・・・
私も命根の尽きるときまで、正しく精進いたします。
健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!