自我いじめ

 おはようございます。

 今年も残すところ1日となりました。この一年、いかがでしたか?

 

 私はどうだったのだろう・・・何となく、私はあまり成長していないように感じました。しかし、ゆっくりと、淨かに一つ一つの出来事を振り返れば、コツコツと成長していたことがわかります。どれも小さく感じられてしまうことばかりのように思えますが、それらは全て、着実な成長と言ってよいことです。

 

 どうして、「成長していない気がする」と感じたのでしょう。

 

 私の敬愛する方の言葉に「他人からエゴイストだと思われるくらいに、自分を大切にしなさい」というものがあります。これは、ただ我儘に生きなさいという意味ではありません。

 私(たち)は時に、無自覚に自分を責めて、批判して、いじめて、傷つけてしまっていることがあります。初めはあるきかっけで起こる一回的な出来事であっても、それが再び起こり、また再び起こり・・・と習慣化してしまうことはよくあることです。

 そうすると、「私」という自我はいつも疲れてしまいます。緊張して、硬くなって、トゲトゲしてしまう。私の経験ですが、日常の、本当に些細なこと--ベッドから起き上がるような ごくありふれたこと--を行う時でさえも、自分を責めていることがあるのです。その批判的な心はとても微細で、注意していなければ気づくことはないかもしれません。しかし、よく注意して観察してみると、あらゆる瞬間において、自分をいじめていることに気づきます。

 私はこれを「自我いじめ」と言っていますが、この自我いじめに気づくとき、先の言葉の重大さを痛感するのです。この時にも、もれなく自我いじめが起こっているのですけれど・・・。

「他人からエゴイストだと思われるくらいに、自分を大切にしなさい」

 

 冒頭に書いた「成長していない」と感じた答えは、まさに自我いじめの傾向性にあるのでしょう。この問題は私のブログに度々登場するところのものであるのですが、2018年を終えるにあたって、しっかりと省察しておきたいと思います。

 

 ある人は、「自分に厳しいことは尊いことである」と言います。確かにその通りです。しかし、自分に厳しく、頑張ってきて、どうにもならなくなってしまった人はどうでしょう。頑張れば頑張るほどに、自分が苦しくなってしまう。辛いですよ、これは。

 そこで、注意深く観察してみると、おそらくその観察の中にも当たり前のように「自我いじめ」が生じ続けていることに気づくかもしれません。しかし、それに気づいているとき、「私」がいじめられて傷つくことはありません。

 この時、「もう大丈夫だよ」と言ってあげることができます。そして、あたたかな心の手で優しく撫でてあげるのです。そっと抱きしめてあげるのです。そばにいてあげることができるのです。

 

 私はいつも、「幸せであれかし!」と書いています。これは私の自我いじめの傾向性に対する一種の調教かもしれません。力業ではありますが、こうして少しずつ、自分に優しくなることができれば良いな・・・そう思う大晦日であります。

 

 健やかで、危険がなく、心やすらかに、幸せであれかし!