ただ、そこにいるために

 ここのところ忙しく、更新が空いてしまいました。台風も過ぎ、今日は今年初めての蝉の声をききました。空模様も夏へ向かっています。

 f:id:teruteru007:20180704225818j:plain

 最近強く思うのです。人生の危機、それは自分の内に起こることであれ、他者という自己の外に起こることであれ、危機に正面から向き合い、それを受け容れようとする人が周りにいてくれれば、私がそこに感じる苦しみは軽くなるのだ、と。もちろん、危機に挑む共同体の関係や質は問題ですが、苦しみを生みかねない状況が生起しているまさにそのときに、「私」の周りに誰かがいてくれて、共にそれを受け容れようとしている事実に救われるのです。

 危機というものによって、人間は成長することができる。でも私は避けることのできる危機なら避けたい。しかし、人生に属する、避けられない危機はやっぱりある。それが姿を現したとき、私はとても注意深くある必要があります。そうでなければ、自我を傷つけてしまい、病的になってしまう。

 苦しみを生んでもおかしくない、そんな一大事を、よき縁にしていくために、それと仲良くなるために、私は注意深く、丁寧に、優しく、寛大に、赤ちゃんをあやすように、小さな子供に教えるように、まず、自分自身をケアの視点をもっていたわってあげなければなりません。

 特に、他者の危機を目の前にしているとき、これはとても大切。自分の心の中心がよく安定して整っているとき、私は相手に寄り添う準備が初めてできていると気づきます。そして、逃げることなく、慄くことなく、私というかけがえのない存在として、そこにいることができます。そこにしっかりといることが、目の前に繰り広げられる状況が要求する、私の全き責任であると思います。

 私は人嫌いですが、生きているので世界と他者に出会わなければならない。生きているので、他者と世界に助けてもらわなければならない。そんなことを強く感じながら、慈しみの心を育てておくことの大切さを痛感します。

 

 健やかで幸せであれかし!