おうち時間

 最近、「#おうち時間」というタグをよく目にする。私もおうち時間実施中。というより、基本的に通常時も「おうち時間」がほとんどである笑。私はいつもトレンドの先を行っていたようである。不要不急の外出はしない。遊びに出かけたり、飲み歩くこともない。静かなものである。私の一大イベントは月に数回の登山くらいで、山は風通しがよく笑、人もあまりいない。実に平和である。ただ今は登山を控えているので、生活のほとんどが椅子か床の上でのおうち時間になってしまった。おかげで少しふっくらしてきた気がする。というか、昨日に言われた。「肥えたね」。…うん、痩せよう。

 明日からまた一週間が始まりますね。心身に優しい注意を向けつつ、頑張りましょう。お健やかでお幸せでありますように。

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Terry on Instagram: “ジョギングコースもすっかり桜だった。全力疾走、何度も。 #桜 #x100vが欲しい”

 そういえば、富士フイルムのX100Vが発売されましたね。初代のセンサーにチリが付着してしまってからは、手元に置いておりません。ネットのレビューを見ていると新しいのを使ってみたくなりました。プレゼントお待ちしております笑。

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Terry on Instagram: “久しぶりに足を使う。 #x100 #fujifilm”

こんな時だからこそ・・・

 春が桜の開花を通してその姿を現わしつつある今日、私はいつもと変わらずひとりしずかに、その現れに全身の感覚を開かれながら坐っている。そこに現れては流れ行く風景、響、香り、味わい、風の感じ。そして、それを前にたたずんでいたら浮かんでくる、この時期特有の感覚。

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桜が咲きました。「ただいま。」「おかえり。」#桜

 春には、この時期にだけ感じられる、ある感覚がある。春といっても、毎年違った春であるはずなのに、この特有の感覚だけは毎年変わらず感じられるから不思議である。それは「やわらかな、さみしさ」。「ゆるやかな、かなしさ」。こういって伝わるかどうかはわからないが、まだ幼かった時から感じ続けている、私の春の感覚である。

 やわらかくて、ゆるやか。ゆらゆら、ふわふわした感覚。例えて言うなら、まゆ玉に包まれているような、ホッとする感覚。それはみぞおちのあたりが緩んでゆく感覚で、心地よいと感じられる感覚。でも、同時にそこにあるのは、さみしさ、かなしさ。どうしてだろう。心地よく、緩んでゆく感覚と同時に、そこにさみしさとかなしさがある。しぼんでゆくような、ふっと…薄れて散り散りになってゆくような感覚。しかし、どちらかがどちらかを打ち消してしまうのではないような、ぎすぎすした様子ではない。緊張関係というのとも少し違う。どちらも漂っているのを感じる、そんな心の風景である。

 そんな毎年変わらない感覚が令和になった今年も感じられるのではあるが、今年は何となく夾雑感が強く出てきている様子である。それはやはり新型コロナウイルスに伴う心のざわつきであるようだ。世相について基本的には疎い私であっても、注意喚起のメールや私の身を案じてくださる海外の友人たちの逼迫した文体から、現在の状況がいかなる様子であるのかということは、容易に察しがつくというものである。また感染の拡大防止対策として、イベントの自粛などが要請されている状況は私の実生活にも直接的な影響が出てきている。大学についてはもちろん、吟剣詩舞に関わる各種コンクールや舞台は軒並み中止が宣言され、段取りが狂いまくっている現状である。事態の収拾の目処が見えてこない中で、外出も憚られ、漠然とした不安と危機感のみが高まってゆく。

 このような実体の掴めない苦しみが日々大きくなりつつある状況の中、私の友人たち、とりわけ観照的教育学Contemplative Pedagogyが縁を繋いでくれた人々が積極的にコメントをSNSに投稿している様子を日々のタイムラインの中で眺めていた。彼らが自己の人生における探求や、その(社会的)実践の中で育み深めてきた洞察に基づいて、今日の世相であるからこそ観照的なあり方、マインドフルなあり方、コンパッションに基づいたあり方の必要性を強く書いているのである。それらを見ていると、私も何か書かねばならぬと思いが蠢き始め、この文章を書いている。

 まず書くべきことは、この記事を書いている私の現状への正しい気づきである。私は、現在くだんのウイルスについて自覚症状と言えるものはなく、身体的には健康である。ニュースを見れば、必ずウイルスについての記事を目にするけれども、この今において、私は無事であるという事実。明日にはどうなっているか、それはもちろんわからないけれども、この今においては無事である。それが、事実である。これを正しく意識することが大切である。まだ来ぬ未来とそこから生じる不安に悩むのは、得策ではない。心をすり減らすばかりで、健康的ではないだろう。このことは、世間の情報を無視するということでは全くなく、適切な態度で情報を摂取しつつ、それを相応しい態度で吟味するということである。そこに不安が生じてきても、「この今において私は無事である」という事実に気づきを向けて、この今において無事であるという事実こそが全てであるから、その事実に留まり、一旦頭を冷やして未来について冷静な思考をしよう、ということである。

 ひとたび、この気づきが確立されると、再び不安が生じてきても、その不安を「この今において私は無事である」という気づきの足場から、ケアしてあげることもできるようになる。あたたかい、優しさに満ちた気づきの眼差しをそっと向けてあげるのである。そうすると、この不安は成仏してゆくだろう。もし、そこに居座っていても、別に取り除く必要もない。その時、その不安は初めの性質とは変わっているだろうし、そこに存在するスペースを差し出してあげれば、いつの間にかいなくなっているかもしれない。そうやってこの不安と付き合ってゆく。

 そして、この不安の存在を通して、私たちは同じように苦しんでいる人々へ想いを馳せることができるかもしれない。同じように苦しんでいる人たちがたくさん世界中にいることは、ニュースを通して毎日嫌という程に知らされている。その人々とつながることができるかもしれない。この想いは、普通の生活をしていれば現れてこなかったであろうものである。そこで、この苦しみを通して、彼らに想いを馳せ、「彼らが幸せでありますように」と願う。祈る。「彼らの苦しみが軽くなりますように」と願う。祈る。

 このように、コロナウイルスの流行とそれに対する不安は変わらずそこにあるけれども、私たちの態度を変えることで、これはマインドフルネスとコンパッションを育む善き縁となすことができる。コロナウイルスの存在は変わらないが、その出来事の持つ(少なくとも一部の)機能を変化させることは、私たちには可能なのである

 ただ、そうできなくても何の問題もないことを付け加えておかなければならない。脅威を前に、恐れ不安、諸々の苦しみを感じることは、私たち「人間の持つノーマルな作用」であるからだ(この作用が起こらないとノーマルでないというわけでも決してない)。だから自分を責めなくてよい。それはせっかくの善き縁への心の努力とは裏腹の成り行きである。その努力をしたことを認めて、評価してあげよう

 家の中にいるからこそ、できることはたくさんある。この今の中にしっかりと気づいて、なすべきことを淡々とやる。淡々とやって時間が余れば、そして急ぐ必要がないならば、忙しいとなかなかできないマインドフルな食事を楽しんだり、瞑想をしたりと、マインドフルな時間を過ごしてみるのもよいかもしれない。イベントなどの中止で別のことに利用可能となった自分の時間を、これまでにたまっていた諸々の「宿題」のために使うのもよいかもしれない。せっかくなら、苦しみに浸かりながら生活するより、心は晴れやかにゴキゲンに過ごしたいものであるなあと私は思う。それは今に限らず、いつもだけれども。

 どうか、皆様がお健やかでお幸せでありますようにと念じています。

   本田陽彦 拝

「関わる」ことと、関わりを「停止」すること

 先日の記事に、出来事に関わるか否かを選択する結果としての「複雑さ」vs「後味の悪さ」という話を書いた。

 私の選択のほとんどは「否応無しに」という感じで、選択の余地なく「関わっている」状態にあるか、そうでなければ「出来事として意識されない」くらいの調子で気づかずに素通りしているというのが実際のところである。そしてこの「否応無しに」という感覚は「良心的な何か」に駆り立てられる形でもたらされているようであり、それを「拒否」すると、「後味の悪さ」を当面の間抱え続けることとなる。

 私が関わることを無自覚的に選択してしまっていることについては、これまで「関わらなかったことについての後悔」を経験したという事態の反復が、一つの物語として半ばドミナントに形成されているからだろうと考えることができる。おそらく、その辺りの影響が深く関わっていることは間違いない。とはいえ、そのような物語の形成以前から、「良心的な何か」に突き動かされる感覚は確かにあったなあと覚えているので、その物語は促進要因ではあっても根本的な原因とは言いにくそうである。

 前にも書いた通り、出来事に「関わる」ことを選択することで、関わらないことで生じる「後味の悪さ」は味わわなくてもよくなるものの、それと引き換えに選択した「関わる」ことで生じる「複雑さ」の中で、「後味の悪さ」以上の「嫌な感覚」を結果として味わい続ける場合というのが私においては往々にしてあるのだった。こうなってくると、「ああ、なんで関わったのだろうか」という後悔の気持ちが強くなってくるのであり、「あの時、しっかり見極められていたら…」というような情けなさを感じるのである。

 さて今回は、このあたりについてもう少し深く書いてみたいと思う。上述の通り、私の場合は「見極め」なるものはほとんど挟まれる余地がないという感覚なのだけれども、それでも、「ん、これは…アレな感じがする」という直感によって見極めという猶予が奇跡的に与えられることがあるのも事実といったところである。まあ、そういう場合であれ、多くの場合は「関わる」ことを選択している気がするのだけれども。しかし、今回はここで立ち止まって、この「見極め」や「関わり」についての一連の問題について考えてみたいと思うのである。この面倒な私において起こる現象にどう向き合うのか、という私にしか関係のない(が、もしかしたら読者の皆さんにも当てはまるかもしれない)お話である。

 結論を先に書けば、「関わってしまったものには、とりあえずは関わりつつ、直感的に生じる「見極め」のタイミングで、関わりを停止したり、継続しながら「関わり」についての態度を決めてゆく」、ということになる。

 この直感というのは、言葉にすればまさに「ん、これは…アレな感じがする」というような感覚であり、「これに関わると後々大変かもしれないぞ」という未来を予感させる一種のアレである。そのようなものを受け取りつつも、私は「いや、私はこれを見なかったことにするわけにはいかないんだ!」という正義感溢れる素晴らしい気持ちと思考に飲み込まれて、あれよあれよと関わってしまっている。

 この結果として、「ああ関わってよかったなあ」と思えるようなすっきりした結末と、「うげげげげ」という種類の関わったことを後悔するような結末とがあるのであるが、不思議なことに後者の場合であっても、その後に前者に転ずるということがあるものだから、話は複雑になる。「うげげげげ」となりつつも、それを耐え抜きながら頑張っているとそれが一掃されるような光景がひらけてくるということが起こることがあるのである。この光景を味わってしまうと、「一時的には後悔するかもしれないが、それが過ぎ去ったあとにはきっと良い結果が訪れるだろう」とい救いのシナリオが現れる。そして、このハッピーエンドの物語が「見極め」の際に強く現れ作用しているように私には思われる。

 しかしながら、すべての事例がこのハッピーエンドになるかといえばそういうわけではない。関われば関わるほど泥沼状態になってゆき、ナンテコッタと叫び続けるような場合も少なくない。だがしかし、こんな時でもハッピーエンドの物語の成就を、まだ見ぬ未来の出来事としてさらに願ってしまうことも十分可能であるので、そこでピシャリと見切りをつけることがなかなかできないということが起こりうる。ここで関わりを停止すれば、今の苦しみも停止するだろう。でも、そうすれば、未来に起こるかもしれないハッピーエンドも実現しないだろう。「せっかくここまで関わったんだったら、もうしばらく付き合ってみようぜ」、という囁きが聞こえてくる。

 結局のところ、この囁きに乗っていては終生関わりを停止することはできない。停止が起こる場合は、ハッピーエンドの到来か出来事そのもの消滅によってのみである。自発的に「ピシャリ」と停止することはできない。

 これは、まともに考えればおバカさんのやることである。関わりつつ、自己の何かをずっとすり減らし続けるということは、まともであれば、停止する方が賢いということが誰にでもわかる。にも関わらず、停止できないという自体に陥るということは、ここに何らかの力が関与していると考えたくなってしまう・・・。そしてその力は、ずっと前から働いているように感じられる。

 さて、「見極め」ということについて、思い出されるエピソードが一つある。これは誠に不思議な話で、このことを考えるに際して思い出された話である。私が師匠に瞑想を習って、しばらくして言われたことである。その時師匠は「もう、私が言わなくても、何が善いことで、何が悪いことかがわかりますね。善いことを実践してください」ということを私に告げた。その時は、全くその通りだと思ったことを覚えているが、今考えると、そこにどのような判断尺度が存在しているのか全くわからない。ただ、その時は、「これは全くその通りで、私は善いことを実践して生きてゆこうではないか」と心の底から思ったのである。

 ここで私の直感において、私の関わりを決定づけている「良心的な何か」「何らかの力」そして「何が善いことかわかること」が重なって見えてくる。だが、私は超越的な善、のようなものを思い描いているわけではなくて、何だろう、もっとリアルなセンスである。これは何なのだろうかとやはり不思議に思うが、これはどうにも根深そうであり、無理やり明らかにしようとせず、そのまま残しておく方がよいのかなと今は感じている。

 現実的な話をすれば、関わり続けても一向にハッピーエンドが予感されない類の事柄については、少し「まとも」なあり方の方向で考えて、関わりを停止することが必要になってくるのではないかなと考えるところだ。そして、そこに「後味の悪さ」が立ち上ってきたとしても、「まあ、仕方ない」と「まとも」に考えゆく態度も訓練しなければならないのではないかななどと思うのであった。

 しかし、強烈な縁があれば、停止しようとも再び同じ(ような)出来事に関わらざるを得ないだろうから、二度と関わらないと決め込むよりも、途中まで読んだ本をそっと書棚にしまう感覚で「停止」を選択するしかないだろうなと思うのである。

 

 大変な世の中ですが、皆さんお元気ですか。よい週末を。

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彼の名をご存知だろうか。たいやきである。しかも日本一の。#たいやき

シンプルに、とはいうものの。

 こんにちは。先日の記事で、「必要以上に複雑にしないこと」について書きました。

 私の場合、普通に生活しているだけで私の周りの世界が複雑になってゆくようなので、じゃあそれ以上にわざわざ複雑にしなくてもいいのではないかと思う、という話でした。これは全くその通りで、できる限りそうしていきたいなあと思っているのですが、実際のところはもう少し事情が複雑であるようです。

 というのも、私の場合、出来事を通過する時に、スーッと通過すればいいのに、何かほとんど止めることができないような何かに動かされているのではないかとしか思えないような感じで、何かしら複雑にしているんですよ。それは多くの場合、「良心」的な何かによって複雑になっているように思われます。複雑性の中にどうしようもなく飛び込んでしまうことが起こってしまう。

 そこで、この「複雑性の中に飛び込んでしまうこと」をやめよう!と決意すればよいのではないかと思うわけですが、前述の通り、これは「良心的な何か」と私には感じられる何かに突き動かされる形で展開してしまうものですから、飛び込むのをやめてしまうと、どうにも後味が悪いという結果を引きずることになるのです。

 そういうわけで、この両者「複雑さ」VS「後味の悪さ」を天秤にかけると、精神的に後者の方があまり心地よくないので、前者を選択せざるを得ないということになります。もっとも、第三の道がある可能性は十分すぎるほどあると思う(というかそうであって欲しい)のですが、今のところはこの辺で折り合いをつける力量しか持ち合わせていないようなので、一旦満足しておくしかないなと思うのであります。

 しかしながら、場合によっては「複雑さ」に至る方を選択して、それと格闘してゆく過程で、そこに「怒り」や「煩わしさ」などが加わる結果、「後味の悪さ」を余裕で超えてしまうことは往々にしてあることなので、見極めというのは難しいものだなあとつくづく思うのであります。

 この辺りは、タイムスパンを長く取るか、短く取るかという問題にも絡んでくるので、いつかまとめて整理してみたいなと思います(いつになるかはわからないし、おそらく後ほど忘れる)。

 健やかで危険がなく、心安らかに幸せであれかし!(ハートの石で幸せになあれ)

https://www.instagram.com/p/B8VXXWYjk53/

眼鏡橋のハートの石。なむなむ🙏これ人工物なんだそう。近くに住むおっちゃん談。#長崎 #眼鏡橋 #ハートストーン

饅頭のために。

 こんにちは。

 「今日は不思議なお天気であるよ・・・」と母がどんより重たい雨雲と虹の写真を車窓から送ってくれました。

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 昨日、母と弟(インドネシアから戻ってきました)が祖父母を連れて星野村に出かけて、玉露饅頭を買ってきてくれました。知る人ぞ知る、大変美味しいお饅頭なのであります。こんなに美味しいのに土日しか作っていないんですよ。予約をしていないと完売しているほどの人気なのです!羊羹も美味しいんですよね。こちらがそのおまんじゅう。

https://www.instagram.com/p/B9x736lj_0j/

知る人ぞ知る玉露饅頭。星野村で作られているのだが、土日しか営業販売していないという幻の逸品である!ここの羊羹も美味しいよ(お皿とおまんじゅうが同じ色...皿の選択を誤った)。#玉露饅頭 #星野村

 昨日の記事に「私は面倒くさがりなんだ!」と書いてしまったので、これでは私のブランディングの問題が・・・と思い(笑)・・・みてください!!ちゃんとお皿に乗ってますね!マットもある!!(手で持ってパシャ📷でいいかなと思ったのは内緒)

 がしかし、お皿の色とおまんじゅうが重なってしまっているではないか・・・!はい、お皿を変えて再撮影のお気持ちにはなれなかった(面倒)ので、「ま、いいか」とアップされております。

 やっぱり面倒くさがりというのは私の性質として根強いらしいので、これからもこの面倒くささと仲良くしていこうと思う昼下がりなのでありました。

 

よりシンプルに。

 こんにちは。大変お久しぶりの更新です。完全放置状態になっていたこのブログですが、久しぶりに開くと「更新していないから広告表示してるぞ!」というのが出てきたので、空白の間の出来事をとても簡単にまとめておこうかと思います。

 昨年の10月から放置状態でしたが、その間にも世界は変化し続けて、もちろん私も変わり続けています。振り返ってみると、昨年は世界に開かれていた一年であったなあと思うのです。自分で「よし、やるか」を動き出さなくても、あちら側から連れ出される感覚とでも言えばよいでしょうか。人のいるところ、開かれた場所、そんな環境に導かれるようにして過ごしていたように思います。

 おかげさまで、いろんなご縁をいただき、私の世界は広がり、複雑性が増しました。これはある面でとてもありがたいことなのですが、一方で広がったご縁から受ける影響も確かに感じるわけでして、それについてはなかなかしんどいなあと感じることもしばしばでありました。生きていくというのは、ある面では何かをすり減らしてゆくことである気がしました。もちろん、すり減って終わりというわけではなく、それゆえにもたらされることもたくさんあります。

 おそらく、根底のところで、私はシンプルに生きていたいのだろうと思います。シンプルというのは、何でも削って捨てて、ということではなくて、必要以上に複雑にしないということです。世界と関わりながら生きていれば、上記のように自動的に複雑になってゆくというのが私においては起こるらしいので、そこでわざわざ自分からより一層複雑にする努力をしなくてもよいのではないかなと思うのです。ある人は、複雑な方が楽しくない?と言っていたのですが、私はその感覚がピンと来ないなあ。

 複雑も、その内実が分かっている複雑ならまだよい(これは複雑と言わないか?)のですが、自分でも処理しきれないレベルになると、単純に面倒臭いなあと私は思ってしまうようです。ただ単に私が面倒くさがりなだけかもしれませんが。いや、多分そうですね笑。

 というわけで、急に複雑になってゆく世界に私がついてゆくのが難しくなって、それに面倒だなと思ってしまったことで、ブログの更新も止まってしまったのではないかと、都合よく因果関係を決め込んでしまう、いかにも面倒くさがりがやりがちな結論の提示となりました笑。

 そういうわけで、読者の皆様からいただいているお問い合わせについても未処理のものが多くなっているのですが、ここのところは何卒ご容赦いただきたく存じますm(_ _)m 徐々にリハビリをしながらブログも更新できればと思っております。

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初詣続編。今年もおふくさんに食べられてきた。うちのおふくさんは今年87さい🐡#日吉神社 #おふくさん

 今年一年、皆様が幸福のうちにいらっしゃいますようにと念じております。あああ、もう三月。遅くなりましたが、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

心の中の悪魔

 まったく、ブログを更新する暇なんかないだろ?という時に限って、何か書こうかという気持ちになる。これは回避に他ならないことをしっかり自覚しつつ、本日の更新と参ります笑

 ここ数日はウインドブレーカーを羽織らないと散歩に行けないほどの気候になりました。かたやインドネシアではついに雨季に入ったそうで、雨音が激しい夜を雨漏りに耐えながら弟は過ごしているそうです。

 最近、自分の過去を振り返ることがしばしばあるのですが、たまにゾッとすることがあります。簡単に言えば、自分の心の中の悪魔に出会うこと。それは過ぎ去った話かもしれませんが、その過去の時点に、私の心の中に確かにいた悪魔の存在は、今の私に深い反省と、この瞬間における悪の雑草を抜き去ることを私に課すのです。この悪魔に栄養を与えることがないように、でも悪魔を通して私は何を学ばなければならないのか、何を見せようとしているのか。そこにあたたかな心のスポットライトを向けてみる必要があるかもしれません。

 今週は台風が来ているようですね。どうぞ気をつけてお過ごしください。

 健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!