マダムと犬

 小学二年生の頃、私は犬を飼いたいと思っていた。「お手」と言えば前足を出し、「お座り」と言えば座り込む可愛らしい姿をテレビで見て以来、ずっと憧れていた動物が犬であった。同級生には数人犬を飼っている者がいて、とても羨ましく思っていた。その中でも「シバイヌ」は私の中で特別な存在であり、その日本的な面構えが私の心を掴んで離さなかったのである。

 ある朝登校中に、3匹の犬を連れた散歩中マダムと遭遇した。彼女が連れていた犬のうち2匹はたいそう大きく、「こんなに大きくなるなら一緒に住むのは大変だなあ」などと思いながらマダム御一行様の傍を通りかかった。当時の私は犬に種類があることをよく理解していなかったらしい。

 「おはようございます」と歩みを止め、真新しい黄色い帽子をとって挨拶した私だったのだが、マダムと犬たちからは何の応答もなく、知らん顔であった。当時の私は今ほど心が狭くなかったので「犬のことを熱心に気にして私に気づいていないのだろう」と黄色い帽子のつばを撫でながらトボトボと通り過ぎたのであった。

 ところが御一行を追い抜き10メートルくらい行ったくらいのところで、「うぉん」と犬が吠えた。「行ってらっしゃい」とでも言ってくれているのかしらと思ったのだが、どうやらそうではない。振り向くと、3匹のうちチビが私に向かって吠え続けている。何となく機嫌が悪そうである。

 「ははん、小さいやつほど虚勢を張るんだと柳川のじいちゃんが言っていたが本当だな」と私は思った(祖父の名誉のために付言すれば、他にもためになる金言をたくさんいただいている)。が、一向に吠えるのをチビがやめない。初めは小さく見えていたチビも、デカイ2匹に比べて小さく見えるのであって、実は普通のシバイヌくらいの大きさであることが十数秒のあいだにわかってきた。しかも吠えているチビの目は、なんとなく濁っているようで、私の知っている「犬」のキラキラしたおめめとは違っていた。私は途端に怖くなった。

 そう言えば、怖い動物に遭遇した時の対処法をテレビでやっていたのを思い出した。「後ろ向きで歩く」とか「死んだフリをする」とか「無視する」とか方法は様々であったが、怖がっていると思われたくない!と私は思った。やはり男の子である。そこで「無視」を決め込むことにしたのだ。

 黄色い帽子をキリッとかぶり直し、学校の方を向いて歩き出した。やや早歩きである。犬の声が近づいてくる・・・後ろをチラ見するとチビが追いかけてきているではないか。男のプライドなど、どうでもよい。

 私は逃げた。走って逃げた。手をふれば足も回ると思って死ぬ気で腕を振った。私は足が遅い方ではない。リレーの選手で走ったことだってある。それについ先日、靴をマジックテープで止めるものから「ひもぐつ」に買い換えてもらったばかりである。

 だが、相手は犬だ。四輪駆動である。負けるのは当然なのである。

 生暖かい感触が足に触れたかと思うと、ピリッと痛みが走った。チビに噛まれたのである。私は半泣きでペタンと座り込んだ。するとマダムとデカイ犬2匹がやってきて私にこう言ったのである。

 「逃げるから追いかけてくるのよ」

 クソババア、と思った。「ごめんなさい」も言わなかった。絶対先生にいつけようと思った。

 この事件以来、私は犬に関心を持たなくなった。冷めたのである。あのマダム御一行はどうしているだろうか。まだ生きているだろうか。そんなことを思い出す秋の昼下がりである。

 みなさま、犬を散歩させるときは、ちゃんと首輪と紐をつけましょう。