こんな時だからこそ・・・

 春が桜の開花を通してその姿を現わしつつある今日、私はいつもと変わらずひとりしずかに、その現れに全身の感覚を開かれながら坐っている。そこに現れては流れ行く風景、響、香り、味わい、風の感じ。そして、それを前にたたずんでいたら浮かんでくる、この時期特有の感覚。

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桜が咲きました。「ただいま。」「おかえり。」#桜

 春には、この時期にだけ感じられる、ある感覚がある。春といっても、毎年違った春であるはずなのに、この特有の感覚だけは毎年変わらず感じられるから不思議である。それは「やわらかな、さみしさ」。「ゆるやかな、かなしさ」。こういって伝わるかどうかはわからないが、まだ幼かった時から感じ続けている、私の春の感覚である。

 やわらかくて、ゆるやか。ゆらゆら、ふわふわした感覚。例えて言うなら、まゆ玉に包まれているような、ホッとする感覚。それはみぞおちのあたりが緩んでゆく感覚で、心地よいと感じられる感覚。でも、同時にそこにあるのは、さみしさ、かなしさ。どうしてだろう。心地よく、緩んでゆく感覚と同時に、そこにさみしさとかなしさがある。しぼんでゆくような、ふっと…薄れて散り散りになってゆくような感覚。しかし、どちらかがどちらかを打ち消してしまうのではないような、ぎすぎすした様子ではない。緊張関係というのとも少し違う。どちらも漂っているのを感じる、そんな心の風景である。

 そんな毎年変わらない感覚が令和になった今年も感じられるのではあるが、今年は何となく夾雑感が強く出てきている様子である。それはやはり新型コロナウイルスに伴う心のざわつきであるようだ。世相について基本的には疎い私であっても、注意喚起のメールや私の身を案じてくださる海外の友人たちの逼迫した文体から、現在の状況がいかなる様子であるのかということは、容易に察しがつくというものである。また感染の拡大防止対策として、イベントの自粛などが要請されている状況は私の実生活にも直接的な影響が出てきている。大学についてはもちろん、吟剣詩舞に関わる各種コンクールや舞台は軒並み中止が宣言され、段取りが狂いまくっている現状である。事態の収拾の目処が見えてこない中で、外出も憚られ、漠然とした不安と危機感のみが高まってゆく。

 このような実体の掴めない苦しみが日々大きくなりつつある状況の中、私の友人たち、とりわけ観照的教育学Contemplative Pedagogyが縁を繋いでくれた人々が積極的にコメントをSNSに投稿している様子を日々のタイムラインの中で眺めていた。彼らが自己の人生における探求や、その(社会的)実践の中で育み深めてきた洞察に基づいて、今日の世相であるからこそ観照的なあり方、マインドフルなあり方、コンパッションに基づいたあり方の必要性を強く書いているのである。それらを見ていると、私も何か書かねばならぬと思いが蠢き始め、この文章を書いている。

 まず書くべきことは、この記事を書いている私の現状への正しい気づきである。私は、現在くだんのウイルスについて自覚症状と言えるものはなく、身体的には健康である。ニュースを見れば、必ずウイルスについての記事を目にするけれども、この今において、私は無事であるという事実。明日にはどうなっているか、それはもちろんわからないけれども、この今においては無事である。それが、事実である。これを正しく意識することが大切である。まだ来ぬ未来とそこから生じる不安に悩むのは、得策ではない。心をすり減らすばかりで、健康的ではないだろう。このことは、世間の情報を無視するということでは全くなく、適切な態度で情報を摂取しつつ、それを相応しい態度で吟味するということである。そこに不安が生じてきても、「この今において私は無事である」という事実に気づきを向けて、この今において無事であるという事実こそが全てであるから、その事実に留まり、一旦頭を冷やして未来について冷静な思考をしよう、ということである。

 ひとたび、この気づきが確立されると、再び不安が生じてきても、その不安を「この今において私は無事である」という気づきの足場から、ケアしてあげることもできるようになる。あたたかい、優しさに満ちた気づきの眼差しをそっと向けてあげるのである。そうすると、この不安は成仏してゆくだろう。もし、そこに居座っていても、別に取り除く必要もない。その時、その不安は初めの性質とは変わっているだろうし、そこに存在するスペースを差し出してあげれば、いつの間にかいなくなっているかもしれない。そうやってこの不安と付き合ってゆく。

 そして、この不安の存在を通して、私たちは同じように苦しんでいる人々へ想いを馳せることができるかもしれない。同じように苦しんでいる人たちがたくさん世界中にいることは、ニュースを通して毎日嫌という程に知らされている。その人々とつながることができるかもしれない。この想いは、普通の生活をしていれば現れてこなかったであろうものである。そこで、この苦しみを通して、彼らに想いを馳せ、「彼らが幸せでありますように」と願う。祈る。「彼らの苦しみが軽くなりますように」と願う。祈る。

 このように、コロナウイルスの流行とそれに対する不安は変わらずそこにあるけれども、私たちの態度を変えることで、これはマインドフルネスとコンパッションを育む善き縁となすことができる。コロナウイルスの存在は変わらないが、その出来事の持つ(少なくとも一部の)機能を変化させることは、私たちには可能なのである

 ただ、そうできなくても何の問題もないことを付け加えておかなければならない。脅威を前に、恐れ不安、諸々の苦しみを感じることは、私たち「人間の持つノーマルな作用」であるからだ(この作用が起こらないとノーマルでないというわけでも決してない)。だから自分を責めなくてよい。それはせっかくの善き縁への心の努力とは裏腹の成り行きである。その努力をしたことを認めて、評価してあげよう

 家の中にいるからこそ、できることはたくさんある。この今の中にしっかりと気づいて、なすべきことを淡々とやる。淡々とやって時間が余れば、そして急ぐ必要がないならば、忙しいとなかなかできないマインドフルな食事を楽しんだり、瞑想をしたりと、マインドフルな時間を過ごしてみるのもよいかもしれない。イベントなどの中止で別のことに利用可能となった自分の時間を、これまでにたまっていた諸々の「宿題」のために使うのもよいかもしれない。せっかくなら、苦しみに浸かりながら生活するより、心は晴れやかにゴキゲンに過ごしたいものであるなあと私は思う。それは今に限らず、いつもだけれども。

 どうか、皆様がお健やかでお幸せでありますようにと念じています。

   本田陽彦 拝