怒り狂う日もまた救いあり
ごきげんよう。本田陽彦です。
人間、生きているなかで、怒りで心が真っ赤に染まることがあります。苦しいけれどもやめられないのです。しかも怒って何が悪い!!!!!!!!!と開き直ります。
でも、よくよく考えると、怒り狂ったところで怒りの対象が直接的にどうにかなるわけではないんですよね。もちろん怒っているときはそんなこと微塵も思いませけれども。
結局、自分自身がヘトヘトになってしまって、あ〜具合悪い・・・とへたってしまいます。そこで、ようやく落ち着いたところで、自分で怒りを起こして、その怒りによって自ら苦しんでいたことを痛感します。
これ、何回やってもきりないです。怒っているそのときは気持ちがいい気がするから笑。「あーやっちまったぜ」と反省するのですが(そのときはね)、また時間が経つとやっちゃう。「わかっちゃいるけどやめられない」、ほんとにこれです。
「渇愛」っていう言葉があります。喉がカラカラの人が水を求めるような、強い欲求の衝動をいいます。初期仏教では、のちの十二因縁の第一、無明と同じレベルに位置付けられていたものです。人間の根源的な衝動がこの渇愛です。
怒り狂ったあとで思うんです。渇愛を滅することって難しいなあ〜と。精進せねばならんな〜と。でも無常なんで(もちろん世俗的な無常ですとも)すぐその心を忘れてしまうこと多し(汗)
でもでも、この無常ゆえに、救いもあるんですよね。ずーっと怒ってたり、後悔してたりってことはないんですよ。どこかで、それも終わって、次の何かが生まれてきます。
無常だから、あるとき、渇愛が滅することもありうるわけで。
あー、無常・・・と嘆くこともいいです。とことん無常を観じた先にブレイクスルーもあるでしょう。
でも、疲れてきたときには、無常ゆえに変わることができるし、そこに救いがあると観じてもよいかもしれません。
ここ最近まで、私にはこの景色が見えていませんでした。でもね、この観念の選択もあるんだな〜って知ってから(これは理知的な理解というよりも、ある種の情動を伴った理解ですね)、ちょっと世界が好きになったような気がするんです。
もちろん、これも無常なんで、気が変わることは普通にあるんですけどね〜笑
ま、いっか〜
また暑くなるみたいですが、みなさまお元気でお過ごしください。
健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!