ただ、そこにいるために

 ここのところ忙しく、更新が空いてしまいました。台風も過ぎ、今日は今年初めての蝉の声をききました。空模様も夏へ向かっています。

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 最近強く思うのです。人生の危機、それは自分の内に起こることであれ、他者という自己の外に起こることであれ、危機に正面から向き合い、それを受け容れようとする人が周りにいてくれれば、私がそこに感じる苦しみは軽くなるのだ、と。もちろん、危機に挑む共同体の関係や質は問題ですが、苦しみを生みかねない状況が生起しているまさにそのときに、「私」の周りに誰かがいてくれて、共にそれを受け容れようとしている事実に救われるのです。

 危機というものによって、人間は成長することができる。でも私は避けることのできる危機なら避けたい。しかし、人生に属する、避けられない危機はやっぱりある。それが姿を現したとき、私はとても注意深くある必要があります。そうでなければ、自我を傷つけてしまい、病的になってしまう。

 苦しみを生んでもおかしくない、そんな一大事を、よき縁にしていくために、それと仲良くなるために、私は注意深く、丁寧に、優しく、寛大に、赤ちゃんをあやすように、小さな子供に教えるように、まず、自分自身をケアの視点をもっていたわってあげなければなりません。

 特に、他者の危機を目の前にしているとき、これはとても大切。自分の心の中心がよく安定して整っているとき、私は相手に寄り添う準備が初めてできていると気づきます。そして、逃げることなく、慄くことなく、私というかけがえのない存在として、そこにいることができます。そこにしっかりといることが、目の前に繰り広げられる状況が要求する、私の全き責任であると思います。

 私は人嫌いですが、生きているので世界と他者に出会わなければならない。生きているので、他者と世界に助けてもらわなければならない。そんなことを強く感じながら、慈しみの心を育てておくことの大切さを痛感します。

 

 健やかで幸せであれかし!

心の傷の昇華

先日怒りの変容について書きました。

怒りのできごとは、心に傷をつけます。私の場合、結構な深さがありました。

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実は夢の中で、さらに新展開がありました。それをみて、私は怒りと傷が昇華してゆく過程の最終局面にあるのではないか?と思ったのです。

 

昇華といっても、それはいつもきれいな形にまとまるわけではありませんが、今回はいい感じに解決しそうです。考えてみれば随分と長い間、この傷を抱えたまま生きていました。

 

夢の中で私は、最悪のケースを経験したのです。私自身が悪者であるということを知らされるというもの。夢の中でこの事実を突きつけられたとき、もう死んだほうがマシだと本気で思いました。そして目が覚めた後も、動揺が続いていました。

 

夢が覚め、この現実世界で今日の始まりと共に呼吸をしながら、動揺する身体を見つめます。

息を長く吐きつつ、さっきまでのできごとが夢であったことを自覚します。

でも、あまりのリアルさに、これは本当のことなのではないか?という疑いの心も出てくる。

身体を起こして、一歩一歩あるいてみながら、心と身体に寄り添うことを通して、「ああ、やっぱり夢だった」と納得しました。笑

 

そこで、生じてくる様々な思いに気がつきました。

「夢のようではなくてよかった」

「傷つけるよりも、傷つけられたほうがいいな」

「夢に比べればずっとマシじゃん」・・・

 

一連の思いを眺めながらお水を飲んで、怒りや不安や憎しみが思いがけなく手放されたことで生じたホッとした安らかさを感じながら、「私は、安らかで幸せでありますように・・・」と念じました。

 

しばらくして考えました。

傷つけるよりも、傷つけられたほうがいい・・・これって本当にそうなのかな。

悪意を持って傷つけるより、傷つけられるほうが、まだその後の自分を大事にできる、といったほうが適切かもしれません。

 

誰かを傷つけてやろうと思って、怒りの心で、利己心から行動すると、その結果に一時的には満足するかもしれない。でも、まともな状態に戻ったとき、私は自分を大切にできなくなる。それはつらいことです。

 

今年になって「怒ることや、人を嫌いになることなんてないでしょう?」と三人の方から聞かれました。

いえいえ笑、めちゃ腹が立つときありますし、何かあったらめちゃ嫌いになりますよ。そりゃ。

でも怒りのピークが過ぎ去るまで、何もしないように心がけてはいます。そして、怒りを認めて駆け寄って、あげるようにしています。まあ、たまに間に合わないときもありますけどね。。。

 

今週も健やかで危険がないように念じています。

 

手渡される繋がりと不安、彼方より来たる繋がりと安心

人間は変化を恐れる生き物です。

これ、私のことです。

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新しい他者との繋がりを構築することに対しては特にそうですね。精神的な親密性が前提とされる繋がりには、多少なりとも腹を割って他者との関わる必要があるので、うっ...リスキーだな...と思ってしまいます。もちろんこれはマインドがそう言ってるわけでありますが。

 

新しい繋がりに出会うとき、私はしばしば腰が引けてしまいます。それが外側からもたらされた場合は特に、ビビってしまうんです。

自分が相手に受け入れられなかったらどうしようかと考える。自分はマジョリティとは言えそうにないことを自覚しているので。世流に逆らうことは腑に落ちませんもの。。。

 

そんなわけで、一つの新しい関係を築きそびれたかもしれません。汗

 

しかし時には、私が想像もしていない形で、運命的と言えるような繋がりがもたらされることがあります。運命は結構強引(笑)。

そこには腰が引けてーなんて言ってる暇もない。あれよあれよという間に繋がってる笑

 

不思議です。ご縁ですね、というやつそのものですよ。

 

ずっと前から知っていたような気がするし、腹を割ってーというより先に、ハラワタが出てしまっているので。笑

 

去年から、そんなご縁をたくさんいただいています。有り難いです。お一人お一人のお顔を思い出すと、ゆるみます。みなさん微笑みかけてくれます(私は全力で手を振ってますよ〜)。

 

ありがとう。みなさんのおかげです。

 

健やかで危険がなく、心安らかで幸せであれかし!

怒りと変容

眠っているときにみる夢。

瞑想するクセ(笑)がついてしまっている私は、夢を瞑想のように観ている。ハッと目覚めて、夢であったことを知る。

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夢を見ながら泣いていたようです。

目覚めてから最初に生じた思いが「神様、これで最後にしてください」でした。もう、この手の体験はいいよ。飽きたよ。わたし先に進みますから・・・。

 

私の尊敬する方の歌に「人を恨むことなく、イライラもせず・・・」という歌詞があります。

誰かに怒って、思い出して、憎んで・・・という循環。外へ向かっていく怒りはもういいかな。

 

こんなことが起こったのには原因があります。

まずは怒りを感じる出来事。そして、それを感情を伴って体験することを怖がって中途半端に終わらせていたこと。それをやわらかく紳士的に抑圧していたこと。

そして、昨日その出来事思い出すようなきっかけが第三者を伴ってあったこと。そして、その他者を信頼して、自分の心の一部をオープンにできたこと。

 

怒りの出来事に関する夢はこれまでいっぱいみてきました。でも、今回のバージョンは初めてだったな。心が変容しつつある、もしくはもうオッケーだよ〜って言っているのかしら。

 

こうして記事を書きながら、読者には何のことかわからないような漠然としたことを綴りながら、整理されていきます。一つ一つ見てゆくうちに、心がじわじわ〜っと、あったか〜くなるのを感じます。

すると怒りのなかにかくれていた、感謝や大切に思う気持ちも、これまでよりも排除することなく、見届けることができた気がしますね(書き終わって読み返すと、ここでいきなり心を閉ざしている笑)。

 

私たちは(少なくとも私は)、心がすっきりとした状態を求めたいし、そのために努力することがあります。けれども、もやもや〜っとしたものが心のどこかにあることは、決して悪いことではないかもしれない。

それがいかなるものであれ、そいつをひっくるめて一緒に過ごしてゆくことで、そいつは徐々に自分自身の変容を促すような触媒として機能するかもしれない。

 

そして自分は大切だし、自分だけが、自分を守ったり傷つけたり、ときには自分を手放したりしながら、自分を救うことができる唯一の存在であることには変わりはない。

 

でも、それと同じくらい、他者も大切。この大切のなかには、「自分を救ってくれる」という利益からくる大切もある(はい、そうです、認めます)。だけどもそれをひっくるめて大切だし、「世界に生まれてきた人間」として、思いやりをもって交わっていかないといけないなと思ったのであります。

 

そんな関係を築くことができるっていうのも、素敵じゃないですか?

 

健やかで危険がなく、心安らかに幸せであれかし!

ぜーんぶ、一回中断しよう!

梅雨ですね。この時節になると私は芋虫になります(芋虫の悪口ではないです!)。梅雨生まれのくせにね。

f:id:teruteru007:20180608165810j:plainいろんなことに追われると周りが見えなくなってしまう。他に選択肢なんかなくて、これしかないんだ・・・と。よく見つめてみると、人生のほとんどをこのモードで生きてるわ・・・。

でも、それは正しい見解ではくて、選択肢は常に「ある」んですよね。見えていないだけで、気づいていないだけで、たくさんある。

それに気づいていくと、これ以上楽しいことはないじゃないか!と思える毎日が生き始めます。きっと。ここに自戒を込めて。

行き詰まったように思えたら、今やっていること中断して、「何もしない」時間を少しでも過ごしてみる。自分自身に立ち返るには、中断が必要ですね。

ぜーんぶ、中断して、人間やってることも中断してしまえ!息も中断して、動くのも、考えるのも、やめてくれるわ!!!

そうすると、、、人間なんてやめてやるぜ!けっ!(斜)ってやってるにも関わらず、存在している背景のような、いつもそこにあるけど全然主張してこない、そんな存在が見えてきます。

あーごめんなさい。たまにそう謝りたくなる。

 

梅雨の時期、カビには気を付けましょう。

 

主人公はわたし。

 こんにちは。

 昨日寝ようとする前に、ポジティブな感覚がぐっと湧いていました。

 人生の主人公はわたし。素晴らしい人生を、これからより素晴らしいものにするのは、すべてあなた(わたし)の御心のままに・・・というような。

 

 すごく前向きですよね。私はこの気持ちを保存しておきたい!と思いました。大切に、大切に、しまっておきたいなと。この気持ちが消えてしまわないだろうか・・・という恐れも同時に出てきましたね。

 このように、快い感覚は好ましいものですが、執着や恐れの温床にもなりかねない。でも、しなやかな自我を育んでゆくには、このポジティブな心を大切に守ってあげることも必要なんだ、と今は思えます。

 日常的な意識に浮上してくる思いが、いわゆる蔵識から生じているのであるとすれば、日常の表面の意識の場で積極的に善いことを思惟してゆくのも大切だなと思います。それが普段は意識していない意識にどれだけ浸透してゆくかはわかりませんが、そうやって意識できるところで努力してみるというのも、ある時期には必要なのかもしれないな。f:id:teruteru007:20180604154524j:plain

 

 少し話が変わりますが、小さかった私が大きく成長するということは、周りの人々も年をとるということです。どうしても老いに伴って身体は壊れて行くし、最後には一つの命が終わってしまう。

 そんな先輩方を目の前にするとき、亡くなる前に、やはりお伝えしたいことがあるんです。そこには責任が伴うけれども、どうしても伝えたいと思ってしまう。これはエゴなのかな。

 高校を卒業して、出会った私の師匠は言いました。「人間に生まれてきたからには、慈悲喜捨の心くらいは知って死んだ方がいい。」

 死というどうしようもない出来事に出会うとき、私は師匠の言葉と声、優しく微笑みかける様子を思い出します。

 

 健やかで危険がなく、心安らかに幸せであれかし!

いのちのつながり

 こんにちは。写真は5年位前にサックスの師匠のお供で弁天さんにお参りに行った時に現れた虹!綺麗でした。思い立って写真の整理をしていたら発見してのアップです。(註:写真はいい思い出も悪い思い出も、その時はよくても後から忌々しいものに変容する可能性があるものまでしっかり残すので、写真を撮る時は慎重になる必要があります・・・)f:id:teruteru007:20180603222315j:plain

 最近、心という性質を観る解像度が上がってきている感じがします。やっぱり心は自分のものではない笑。真面目な話、沼の底から湧き出てくるアブクみたいにポコポコ思いが出てくる。

 その思い、思考、考え、記憶などの心の対象が生じてくることを、まさに生じてくるそのままに、正しく意識することが瞑想では大切なわけですね。

 

 今日、祖父を招いて食事をしたのですが、食事中も記憶がポーン・ポーンと、なんの脈絡もなく出てきてはこちらを見ている笑。まあ、私が食事に寄り添って、心を込めて食べる決意が弱かったということもありますが・・・。

 ここで、できるだけ自覚的に、意識を伴わせながら、生じてきた心の対象を追いかけてみます。するとですね、どの記憶も行き着く先はネガティブな気分を味わわせてくれるものばかりなんですよ。もしかしたらこれは私だけなのかもしれませんが、これだけたくさんの思いが湧いてくるのに、ほとんどの場合が暗い。中には楽しい、ポジティブな志向性を有するものがあってもいいじゃないか!!!!!(怒)と私は恨めしく思うわけです!

 そんなことを食事をしながら観察し、家族で話し合いました笑。

 

 今の時代、核家族化が進んで(?)いますからね。三世代で食卓を囲むのは稀なりと聞きます。私も久しぶりにおじいちゃんと食事をしましたが、昔話なんかを細かくやってくれるんですよ。私が知らない(たぶん両親も知らない)人たちのことを、めちゃめちゃ詳細に語ってくれる。正直、聞いていてもわからないし、人間関係も頭に入ってこない笑。でも、ほっこりします。これまで何度もこういう機会はあったのですが、今日初めてほっこりしたんですよね。

 そして、自分の真ん中から、じわじわ〜っと、「ああ、いのちのつながりって、こういう感じなんだね」という感覚が生じてきました。おじいちゃんとおばあちゃんがいて、おとうさんとおかあさんがいて、今ここに私がいるんだ〜〜と。もちろんひいおじいちゃんとおばあちゃん、そのまた・・・おじいちゃんおばあちゃん・・・。

 

 なんか素敵じゃないですか!私、とても素敵だなあと思いましたよ自分で。笑い。

 

 親子三世代で過ごす時間、大切ですね。親と子だけでも十分つながりを感じられるのかもしれないけれど、三世代となると、いのちのつながりは、より強く感じられます・・・。なんかいい。

 私は独我論的(これがすべてというわけではないのですが)な観念が強かったのですね。それはそれで、必要なビジョンというかパラダイムを提供してくれて感謝すべきところではあるんですが、今度は、その・・・世界に登場してきて生きている一人の人として、受け継がれてきたいのちの果実としての私の側面も感じて味わって、ほっこりしていくのもいいんじゃない?そう私の心が言ってます。

 

 この季節、きついですが、健やかで危険がないように祈っています。