怒りと変容

眠っているときにみる夢。

瞑想するクセ(笑)がついてしまっている私は、夢を瞑想のように観ている。ハッと目覚めて、夢であったことを知る。

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夢を見ながら泣いていたようです。

目覚めてから最初に生じた思いが「神様、これで最後にしてください」でした。もう、この手の体験はいいよ。飽きたよ。わたし先に進みますから・・・。

 

私の尊敬する方の歌に「人を恨むことなく、イライラもせず・・・」という歌詞があります。

誰かに怒って、思い出して、憎んで・・・という循環。外へ向かっていく怒りはもういいかな。

 

こんなことが起こったのには原因があります。

まずは怒りを感じる出来事。そして、それを感情を伴って体験することを怖がって中途半端に終わらせていたこと。それをやわらかく紳士的に抑圧していたこと。

そして、昨日その出来事思い出すようなきっかけが第三者を伴ってあったこと。そして、その他者を信頼して、自分の心の一部をオープンにできたこと。

 

怒りの出来事に関する夢はこれまでいっぱいみてきました。でも、今回のバージョンは初めてだったな。心が変容しつつある、もしくはもうオッケーだよ〜って言っているのかしら。

 

こうして記事を書きながら、読者には何のことかわからないような漠然としたことを綴りながら、整理されていきます。一つ一つ見てゆくうちに、心がじわじわ〜っと、あったか〜くなるのを感じます。

すると怒りのなかにかくれていた、感謝や大切に思う気持ちも、これまでよりも排除することなく、見届けることができた気がしますね(書き終わって読み返すと、ここでいきなり心を閉ざしている笑)。

 

私たちは(少なくとも私は)、心がすっきりとした状態を求めたいし、そのために努力することがあります。けれども、もやもや〜っとしたものが心のどこかにあることは、決して悪いことではないかもしれない。

それがいかなるものであれ、そいつをひっくるめて一緒に過ごしてゆくことで、そいつは徐々に自分自身の変容を促すような触媒として機能するかもしれない。

 

そして自分は大切だし、自分だけが、自分を守ったり傷つけたり、ときには自分を手放したりしながら、自分を救うことができる唯一の存在であることには変わりはない。

 

でも、それと同じくらい、他者も大切。この大切のなかには、「自分を救ってくれる」という利益からくる大切もある(はい、そうです、認めます)。だけどもそれをひっくるめて大切だし、「世界に生まれてきた人間」として、思いやりをもって交わっていかないといけないなと思ったのであります。

 

そんな関係を築くことができるっていうのも、素敵じゃないですか?

 

健やかで危険がなく、心安らかに幸せであれかし!

ぜーんぶ、一回中断しよう!

梅雨ですね。この時節になると私は芋虫になります(芋虫の悪口ではないです!)。梅雨生まれのくせにね。

f:id:teruteru007:20180608165810j:plainいろんなことに追われると周りが見えなくなってしまう。他に選択肢なんかなくて、これしかないんだ・・・と。よく見つめてみると、人生のほとんどをこのモードで生きてるわ・・・。

でも、それは正しい見解ではくて、選択肢は常に「ある」んですよね。見えていないだけで、気づいていないだけで、たくさんある。

それに気づいていくと、これ以上楽しいことはないじゃないか!と思える毎日が生き始めます。きっと。ここに自戒を込めて。

行き詰まったように思えたら、今やっていること中断して、「何もしない」時間を少しでも過ごしてみる。自分自身に立ち返るには、中断が必要ですね。

ぜーんぶ、中断して、人間やってることも中断してしまえ!息も中断して、動くのも、考えるのも、やめてくれるわ!!!

そうすると、、、人間なんてやめてやるぜ!けっ!(斜)ってやってるにも関わらず、存在している背景のような、いつもそこにあるけど全然主張してこない、そんな存在が見えてきます。

あーごめんなさい。たまにそう謝りたくなる。

 

梅雨の時期、カビには気を付けましょう。

 

主人公はわたし。

 こんにちは。

 昨日寝ようとする前に、ポジティブな感覚がぐっと湧いていました。

 人生の主人公はわたし。素晴らしい人生を、これからより素晴らしいものにするのは、すべてあなた(わたし)の御心のままに・・・というような。

 

 すごく前向きですよね。私はこの気持ちを保存しておきたい!と思いました。大切に、大切に、しまっておきたいなと。この気持ちが消えてしまわないだろうか・・・という恐れも同時に出てきましたね。

 このように、快い感覚は好ましいものですが、執着や恐れの温床にもなりかねない。でも、しなやかな自我を育んでゆくには、このポジティブな心を大切に守ってあげることも必要なんだ、と今は思えます。

 日常的な意識に浮上してくる思いが、いわゆる蔵識から生じているのであるとすれば、日常の表面の意識の場で積極的に善いことを思惟してゆくのも大切だなと思います。それが普段は意識していない意識にどれだけ浸透してゆくかはわかりませんが、そうやって意識できるところで努力してみるというのも、ある時期には必要なのかもしれないな。f:id:teruteru007:20180604154524j:plain

 

 少し話が変わりますが、小さかった私が大きく成長するということは、周りの人々も年をとるということです。どうしても老いに伴って身体は壊れて行くし、最後には一つの命が終わってしまう。

 そんな先輩方を目の前にするとき、亡くなる前に、やはりお伝えしたいことがあるんです。そこには責任が伴うけれども、どうしても伝えたいと思ってしまう。これはエゴなのかな。

 高校を卒業して、出会った私の師匠は言いました。「人間に生まれてきたからには、慈悲喜捨の心くらいは知って死んだ方がいい。」

 死というどうしようもない出来事に出会うとき、私は師匠の言葉と声、優しく微笑みかける様子を思い出します。

 

 健やかで危険がなく、心安らかに幸せであれかし!

いのちのつながり

 こんにちは。写真は5年位前にサックスの師匠のお供で弁天さんにお参りに行った時に現れた虹!綺麗でした。思い立って写真の整理をしていたら発見してのアップです。(註:写真はいい思い出も悪い思い出も、その時はよくても後から忌々しいものに変容する可能性があるものまでしっかり残すので、写真を撮る時は慎重になる必要があります・・・)f:id:teruteru007:20180603222315j:plain

 最近、心という性質を観る解像度が上がってきている感じがします。やっぱり心は自分のものではない笑。真面目な話、沼の底から湧き出てくるアブクみたいにポコポコ思いが出てくる。

 その思い、思考、考え、記憶などの心の対象が生じてくることを、まさに生じてくるそのままに、正しく意識することが瞑想では大切なわけですね。

 

 今日、祖父を招いて食事をしたのですが、食事中も記憶がポーン・ポーンと、なんの脈絡もなく出てきてはこちらを見ている笑。まあ、私が食事に寄り添って、心を込めて食べる決意が弱かったということもありますが・・・。

 ここで、できるだけ自覚的に、意識を伴わせながら、生じてきた心の対象を追いかけてみます。するとですね、どの記憶も行き着く先はネガティブな気分を味わわせてくれるものばかりなんですよ。もしかしたらこれは私だけなのかもしれませんが、これだけたくさんの思いが湧いてくるのに、ほとんどの場合が暗い。中には楽しい、ポジティブな志向性を有するものがあってもいいじゃないか!!!!!(怒)と私は恨めしく思うわけです!

 そんなことを食事をしながら観察し、家族で話し合いました笑。

 

 今の時代、核家族化が進んで(?)いますからね。三世代で食卓を囲むのは稀なりと聞きます。私も久しぶりにおじいちゃんと食事をしましたが、昔話なんかを細かくやってくれるんですよ。私が知らない(たぶん両親も知らない)人たちのことを、めちゃめちゃ詳細に語ってくれる。正直、聞いていてもわからないし、人間関係も頭に入ってこない笑。でも、ほっこりします。これまで何度もこういう機会はあったのですが、今日初めてほっこりしたんですよね。

 そして、自分の真ん中から、じわじわ〜っと、「ああ、いのちのつながりって、こういう感じなんだね」という感覚が生じてきました。おじいちゃんとおばあちゃんがいて、おとうさんとおかあさんがいて、今ここに私がいるんだ〜〜と。もちろんひいおじいちゃんとおばあちゃん、そのまた・・・おじいちゃんおばあちゃん・・・。

 

 なんか素敵じゃないですか!私、とても素敵だなあと思いましたよ自分で。笑い。

 

 親子三世代で過ごす時間、大切ですね。親と子だけでも十分つながりを感じられるのかもしれないけれど、三世代となると、いのちのつながりは、より強く感じられます・・・。なんかいい。

 私は独我論的(これがすべてというわけではないのですが)な観念が強かったのですね。それはそれで、必要なビジョンというかパラダイムを提供してくれて感謝すべきところではあるんですが、今度は、その・・・世界に登場してきて生きている一人の人として、受け継がれてきたいのちの果実としての私の側面も感じて味わって、ほっこりしていくのもいいんじゃない?そう私の心が言ってます。

 

 この季節、きついですが、健やかで危険がないように祈っています。

ふんどし生活はじめました

 おはようございます。本田陽彦です。

 最近はよいお天気が続きますね。連休も近づき楽しみですね。

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 表題にもありますように、わたくし、ふんどし生活を始めました。去年、東京で立ち寄った「うさとの服」の展示会で弟用に一つ購入していたのですが、なかなか若者は使ってくれません(一回使ったとは言ってましたが)笑

 そこで、私が締めたろう!と思いやってみたら、翌朝の感覚が違うんですよ!!

 私は朝起きてボディスキャン(頭からつま先まで身体感覚を辿ってゆく)をするんですが、スキャンを始める前に「いつもと違う感覚」が感じられるのです。

 言葉にするなら、「足が生えてる」感じ。足の裏の感覚までしっかり、足が置かれているところに感覚があるんですね。

 

 「おお〜〜!」でしょ。

 

 ふんどしにしようと思ったきっかけは、尊敬する人物の影響もあり、ヒモトレを始めたことにあります。ヒモトレというのは小関勲氏が発案されたメソッドで、丸紐(直径4~8mmでテンションがかかると少し伸びるくらいのもの)を身体に沿わせるように「ゆる〜く」巻くだけ。超簡単なのです。しかも巻いた瞬間から身体のまとまり感が変化します。普通はあまり吹聴しない性格ですが、これについてはすごく驚きまして便利なので、いろんな方に紹介しています。

 

 小関勲, 甲野善紀(2016)『ヒモトレ革命』日貿出版社 という本が出ていますが、その中で甲野氏(古武術研究家)が「ゴムは身体にとって騒音」というようなことをおっしゃっていました。そこで、ふんどしを購入していたのを思い出し締めてみたというわけです。

 

 ふんどしも、腰紐を結ぶのではなく、前で交差して折り返すとよいそうです。折り返した部分をネジネジすると、丸紐みたいになります。もしかしたら、これもヒモトレ!?

 

 そういうわけで、ふんどし、なかなかいいですよ。日中も締めているのがよいのだろうとは思いますが、タイトなパンツを履くときにはややかさばる(持っているのが少しばかり分厚い生地)ので、寝るときと家にいる間でふんどしライフを愉しんでいま〜す。

 もちろん、洗濯しますので乾く間はゴムで締める下着をつけますが・・・。そのうち追加で何枚か導入しようと思います!

 

 皆さんもいかがですか!

 

 健やかで危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!

プラムヴィレッジ・リトリート@福岡

おはようございます。久しぶりの更新です。

今日は正行寺にて行われるプラムヴィレッジのリトリートに参加するために二日市へ電車で向かっています。

 

どんな格好で行こうか...と案じていました(上下白の絣作務衣はあるけど、アヤシイ!)が、大好きなヨーガ療法士のご夫婦からお世話していただいた「うさとの服」をまとって行くことにしました!

 

ティク・ナット・ハン師のサンガが伝えるマインドフルネス。愉しんで来たいと思います〜

 

健やかで、危険がなく、心安らかで、幸せであれかし!f:id:teruteru007:20180421085545j:image

 

写真は四月初めの能古島から。

笑い

 こんばんは。本田陽彦です。

 

 先日あった面白い出来事をひとつ。

 

 母と明太子を買いに出かけた時のことです。お店のお姉さんがお茶と試食を運んできてくれました。その試食の品は加熱処理がなされており、常温で大丈夫ですよというのです。

 そこで私は「あー、入院する時なんかにいいね!」と言ったのです。するとお姉さんのツボに入ったそうで、大爆笑されました。

 私は何がおかしかったのかよくわからなかったのですが、面白かったんですって笑。

 

 時々、私の意図せぬところで笑いが生まれることがあります。ところがねらっていった時には笑いは生まれないことが多い・・・。

 

 「他力」とはこういうことであろうと思うわけです。

 

 外套を忘れてしまうほど、今日は暖かな一日でした。カメラを持って、何かを感じながら歩きたくなります。

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 健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!