特別な日に、特別な心で書くブログ

 ごきげんよう。本田陽彦です。

 

 昨夜、坐っていますと、秋の虫の鳴き声が感じられました。もう秋ですね。

 

 今日は私の母の誕生日です。57歳になりました。我が家の親分です。

 

 小さいころ、母が死ぬ夢をみました。今でもよく覚えています。

 

 母が突然死んじゃった、というところから夢は始まります。もう、悲しくて、何が起こったのかわかりません。そうですよね。まだ幼稚園くらいのときですもの。

 もう会えない、いなくなってしまった母を想って、私はずっと泣いていました。一人で泣いていました・・・

 すると、見知らぬお姉さんが私に声をかけて背中をさすってくれるんです。全く知らない人。顔も今ではよく思い出せないけれど、背が高くて、変わった服を着ていました。

 

 お姉さんは言います。

 「ママは、むか〜しいたところに帰って行ったんだよ。お家に帰って行ったのよ。だから、ママは寂しくないよ」

 

 この言葉を聴いて、夢のなかのチビてるてるは「そうなのか」と。

 「家に帰ったのなら別に普通のことだし、悲しくないね・・・でも寂しいな」と思ったそうです。そして泣きました。自分の泣き声で目が覚めました・・・夢でよかった。

 

 この夢のことを思い出すたびに、懐かしいようで、また寂しいようで。不思議な感覚があります。

 

 それから、何年経ったのでしょうね。四捨五入して20年くらいかしら。

 今も母はこうして生きていますし、私も生きています。母は常に家族を支えてくれている、本当に太陽のような人です。この人がいなくなったら私たちは生きていけないだろうなと思います。

 私は冗談半分、「大金持ちの家に生まれてくる予定だったのにな」なんて言ったりしますけれども、母のもとへ生まれてくることができて心からよかったと思っています。この人の子でよかった。

 

 そういえば、私が夢を見るよりも小さいころだと思いますが、「神様がママのところに行きなさいって言った」と言ったそうです。

 

 神様は私を母のもとへ導いたそうで。う〜ん。母には大きな負担になることをしてくれた神様。ありがとうございました。

 

 私はしばしば人間であることをやめたくなります。けれども、母を見送るまではそばにいないといけないなと思うのです。それだけは、必ず。

 

 今日は特別な日です。私にとっても家族にとっても世界にとっても。だって、母が私を産んでくれたことで、私が生まれて、同時に私の世界が立ち上がってきたのですから。その母が生まれた日は同じくらい特別なのです。

 

 特別な日には特別な心を持って住む。この一日だけは、心を汚さないように、心と身体を自分で守りながら、慈悲喜捨の心を育てることをして生きたいです。

 

 どうぞ、いつにも増して、

 健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!

 

 誕生日おめでとう。

 

 

味方がいることを忘れずに

 ごきげんよう。本田陽彦です。

 

 生きていて、妄想にどっぷり浸かっていると、精神的プロセスの作り出す物語にはまってしまいます。いつの間にか、暴流に押し流されてしまうんです。

 

 そんなとき、私は独りの世界を生き始めます。人間は一人で生まれて、一人で死んでゆきます。これは事実なのですが、心の作り出す物語における「独り」というのは、寂しさや不安、憂いをともなった、事実ではない「孤独」です。

 

 孤独はネガティヴな物語です。とても辛いものです。孤独の物語を生きていると錯覚しているとき、私の世界には他者はいません。もちろん家族もいません。

 

 でも現実には家族がいて、こんな私を支えてくださる縁ある方々がいらっしゃいます。そのことを忘れがちになるんです。失礼ですね。

 

 私には味方がたくさんいる、このことを思い出すと、その瞬間にポジティヴな物語が始まります。物語であることには変わりはないのですが、心はそんなに汚れません。

 

 これほどまでに素晴らしい、尊敬する人々が、妙なる縁によって私と関係している。

 

 このことを常に思い出し、それをもって生きてゆくことができれば、何も怖いものはありません。できないことはない。なんでもできる。エネルギーが湧いてきます。

 

 私には味方がいるんだ。そこに合掌して、今日も精進しよう。この瞬間、心を汚さないように、マインドフルネスによって暴流を堰きとめるのです。

 

 健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!

回向

 ごきげんよう。本田陽彦です。

 

 先日、吟道の大先輩がまた一人、旅立ってゆかれました。

 

 私が吟の道に入ったときから、弟と二人、本当に慈しんでいただきました。孫のように可愛がっていただき、「てるひこくん、やっちゃん」とお会いするたびに握手をしてくださった、大きく包み込む手の感触を思い出します。

 

 人生は夢のごとく、また煙のごとし。

 

 葬儀では追悼の吟を師匠と共に捧げました。師は「あなたが可愛がっていた、陽彦と恭裕もここにおります」と先輩に涙を流しながらお声をおかけになりました。

 

 詩吟が大好きで、とてもお上手な方でした。紋付袴で凛々しくお立ちになっているお写真からは、私たちの吟を聴いて「精進しなさい」と語りかけていらっしゃるように感じられました。

 私たちが出会ったときには光を失っていらっしゃいましたが、肉体を離れた今、大きくなった私たちの姿を見ていただけたでしょうか。おかげさまで、こんなに大きくなりました。弟と二人、刀をお借りして舞った城山、懐かしいです・・・

 

 人間として生まれて、このように素晴らしい方々とご縁をいただけたことに、心から感謝いたします。厳格ながらも柔和であり、皆に慈しみのお心を向けていらっしゃったお姿に尊敬合掌いたします。

 

 私の積んだ功徳を、今生を終えられた大先輩に回向いたします。回向、回向、回向・・・

 

 私も命根の尽きるときまで、正しく精進いたします。

 

 健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!

好きも嫌いも理屈じゃないのよ❤️

 ごきげんよう。本田陽彦です。

 

 先日おもしろい話をききました。

 女性は好き嫌いの判断を「なんとなく」やってる。男性は好き嫌いに「理屈がついている」のだとか。

 

 おもしろいな〜と思いました。

 

 この「理屈がついている」というところ!まさに文字通り、理屈がへばりついているんですよ笑

 

 こんなことがあって、これこれこういう運びで「好きor嫌い」になりました!っていうことなんですが、これは心の反応に無理やり理由付けしているということに他ならないわけです。

 

 好き嫌いの判断を下すその心の反応と、「それにまつわる理屈」というのは直接的な繋がりはないです笑。

 

 とっさに「好き」か「嫌い」か「どうでもいい」かの判断を下してます。判断というより「反応」でしょうね。反応の結果を解釈して(ほぼ同時に)判断する。

 

 こんなことがあったから「好き」になりました!という場合、「こんなことがあった」という経験された事実から、いつも「好き」という反応が生じるとは限らないわけで。同じ経験的事実から「どうでもいい」という反応が生じることもあるんですよ。その瞬間には心の反応だけが存在している。

 

 だから、どんなに論理的に説明しようとも、それは無理やり理由付けしている以外の何物でもないんですね。感情ってそんなものです。不思議なんです。

 

 不思議です。ただ不思議。

 

 だからこそ「人生って不思議で面白い」ってなるんじゃないのかな。

 

 健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!

みーんな戦闘モード

 ごきげんよう。本田陽彦です。

 

 少し前に郵便局に行ったとき、順番待ちのおじさまたちの顔がすごく怖かったのを思い出しました。椅子に腕を組んで座って、おばあちゃんが入ってきたのに譲ってあげない。声をかけると睨みつけられる・・・(汗)

 

 心ないなあ、と思いました。この人にはお母さんもいるだろうに。おばあちゃんもいただろうに。人間の子供だったんじゃないのかな〜って。

 

 でも、それと同時に、とても愛おしく思えたんです。「ああ、この人、一生懸命頑張って、世間の中で戦ってるんだなぁ。戦闘モードなんだろうな〜」って。

 

 私の推測なんですけど、この人たちって、家に帰り着いたら戦闘モードがオフになるんじゃないかと思うんですよ。だって、ずーっとコレやってたらきついですからね。奥さんとか、子供とかが待っている家に帰るとスイッチを切って、人間に戻っていくんじゃないかなと。

 

 そして朝になって、家を出るとき。玄関を出て行くとき、戦闘モードがオンになる。戦わなきゃ!!って。

 

 私、じーっと自分を見つめてみたんですよ。そしたらね、私も戦闘モードのときがある!!ってことに気がつきまして。(遅いぞ!)

 

 例えば、外に食事に出ますよね。そのとき、戦闘モードなんですよ笑。

 テーブルが汚れてる!とか、ドンってお皿置いていった!とか・・・あげだしたらきりがないくらい目に付くので(苦笑)。

 まあね、一応プロでやってるんだったら、プロらしい対応をするべきだ!と思います。けれども、この人も人間なんだよな〜っていうことを私は忘れてしまっているんですよね。職業人という生き物として見ていて、人間だと思ってない。(ちょっとオーバーかもしれませんが)

 

 やっぱり、人間ですからね。疲れていたら機嫌が悪くなるしね。 

 

 みんな怖くなると心臓がバクバクするんですよね。目の前にいるその人も、たとえ無礼なことをしようとも、そんな存在なんだと思うことができれば、戦闘モードを解除できるかもしれないです。

 

 ほんのすこし、そんなふうに こころを向けてみることができれば、世界はもっと幸せになるんだろうな🍀

 

 健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!

手放そうと思うと手放せない

 ごきげんななめです。本田陽彦です。

 

 もやもやと心の中に暗雲が見えます。これは雨雲でしょうか。それとも雷雲でしょうか。ゲリラ豪雨が来るやもしれません。

 

 心に生じたこの厄介な存在。知ってますとも、あなたの正体。ふふふ(魔女みたいな顔)。

 

 手ごわいんですよね。手放したいです。手放したくてウズウズしているんですけど笑

 

 ・・・うん、それがなかなかできない。

 

 手放そうと思うと、余計に握りしめちゃうことって多いんです。そんな時は手放すことを一旦止めてみるのもいいかもしれません。

 

 手放す努力をお休みして、雨雲の遥か下の方にある小枝をつかんでみたら・・・?(自分に言ってる笑)

 

 そうすれば、その瞬間、手放せなかったアイツを自然と手放すことができています。

 

 ふ〜〜汗

 

 今日も愉しく過ごせますように。

 

 健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!

健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!のわけ

 ごきげんよう。本田陽彦です。

 

 遠い昔のことが思い出されるときってありますよね。昼寝から目覚めたとき、私はそんな体験をしました。

 

 ある人の、過去のたましいを感じたとでもいえばよいのでしょうか。

 

 人間ってね、こころのずーっと奥のほう、もっともっと、ずーっと奥のほうに隠れてる何かがあるような気がするんです。

 ほんとに小さくって、とっても繊細で、触ることもできないほど傷つきやすくて。でもすごく愛おしくって・・・そんな何か。

 

 その、たましいとでも言えばいいのか、その何かは、ときに泣いていることがあるんです。人間見かけは元気にしているように見えても、その何かは悲しそうな顔をして、泣いている。

 

 私、それに気がつかなかったんだな〜って。ごめんね・・・って。そんなことが突然私のこころを満たしてきました。

 

 過ぎ去ったときのことを考えてもこころを汚すだけなのかもしれません。でも、もしそのとき、気づいていたとしたら、私はどうすればよかったんでしょう・・・

 おそらく私は抱きしめて、温めたいと思うでしょう。でも、こわれちゃうかもしれません。マザーテレサならそうするでしょうか・・・。

 

 う〜ん。もし、今その状況に出くわしても、私何したらいいかわからないです。わからない。

 

 もしかしたら、何かしないと・・・って思う必要はないのかもしれません。何か出来たら、そして、元気になってゆくのを見届けることができたら、それは一番だと思いますけどね。

 

 ブッダは言います。

Mātā yathā niyaṃ puttaṃ

āyusā ekaputtam anurakkhe,

evam pi sabbabhūtesu

mānasam bhāvaye aparimāṇaṃ. || Sn_I,8.7 ||

 

母が、自分の息子、独り子を生命を以って護るように

そのように、一切の生き物においても

無量の心を育むべきである。 (筆者訳)

 

 「こころする」「こころを向ける」「慈悲を送る」「慈悲を念ずる」・・・これだけでいいのかなって。

 

 あなたのこころの奥にある何か、それはあなたのこころそのものかもしれないし、よくわからないけど、私はあなたに慈しみをもってますよ。ただ、それだけで、いいかもしれないです。

 

 私の敬愛する方が、三ヶ月位前でしたかね、こんなことをおっしゃいました。

 「あー、なんとかしなきゃ」って思い込んでいたときのことです。

ご自分が善かれと思っても、このようなとき、何もしないのが賢いです。
言葉以上に大切なものがございます。
謙虚な心で、心を込めて慈悲を念じてください。
慈悲喜捨の心を育ててください。

 

 その選択肢は私のなかになかったです。ほんとに。ありがたかったです。

 

 いつも最後に、「健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!」と書いてます。これは、そういうわけなんです。

 

 言葉が届かなくても、この世にいてもいなくても。気持ちが伝わらなくても、相容れなくれも。私は慈悲喜捨をもってここに、ただ、いる。

 

 こんなことを言ってる私もいろんな人を傷つけているかもしれません。たぶん、気づかないところでたくさん傷つけているでしょう。そこに「ごめんなさい」といつも思っています。

 

 ニュースをみると悲しい出来事ばかりが入ってきます。そんな悲しみばかりの世間が私は嫌いです。でもそれは私自身を嫌いだということかもしれないなと思います。

 

 それでは今日も善い1日でありますように。

 

 健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!