好きも嫌いも理屈じゃないのよ❤️

 ごきげんよう。本田陽彦です。

 

 先日おもしろい話をききました。

 女性は好き嫌いの判断を「なんとなく」やってる。男性は好き嫌いに「理屈がついている」のだとか。

 

 おもしろいな〜と思いました。

 

 この「理屈がついている」というところ!まさに文字通り、理屈がへばりついているんですよ笑

 

 こんなことがあって、これこれこういう運びで「好きor嫌い」になりました!っていうことなんですが、これは心の反応に無理やり理由付けしているということに他ならないわけです。

 

 好き嫌いの判断を下すその心の反応と、「それにまつわる理屈」というのは直接的な繋がりはないです笑。

 

 とっさに「好き」か「嫌い」か「どうでもいい」かの判断を下してます。判断というより「反応」でしょうね。反応の結果を解釈して(ほぼ同時に)判断する。

 

 こんなことがあったから「好き」になりました!という場合、「こんなことがあった」という経験された事実から、いつも「好き」という反応が生じるとは限らないわけで。同じ経験的事実から「どうでもいい」という反応が生じることもあるんですよ。その瞬間には心の反応だけが存在している。

 

 だから、どんなに論理的に説明しようとも、それは無理やり理由付けしている以外の何物でもないんですね。感情ってそんなものです。不思議なんです。

 

 不思議です。ただ不思議。

 

 だからこそ「人生って不思議で面白い」ってなるんじゃないのかな。

 

 健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!

みーんな戦闘モード

 ごきげんよう。本田陽彦です。

 

 少し前に郵便局に行ったとき、順番待ちのおじさまたちの顔がすごく怖かったのを思い出しました。椅子に腕を組んで座って、おばあちゃんが入ってきたのに譲ってあげない。声をかけると睨みつけられる・・・(汗)

 

 心ないなあ、と思いました。この人にはお母さんもいるだろうに。おばあちゃんもいただろうに。人間の子供だったんじゃないのかな〜って。

 

 でも、それと同時に、とても愛おしく思えたんです。「ああ、この人、一生懸命頑張って、世間の中で戦ってるんだなぁ。戦闘モードなんだろうな〜」って。

 

 私の推測なんですけど、この人たちって、家に帰り着いたら戦闘モードがオフになるんじゃないかと思うんですよ。だって、ずーっとコレやってたらきついですからね。奥さんとか、子供とかが待っている家に帰るとスイッチを切って、人間に戻っていくんじゃないかなと。

 

 そして朝になって、家を出るとき。玄関を出て行くとき、戦闘モードがオンになる。戦わなきゃ!!って。

 

 私、じーっと自分を見つめてみたんですよ。そしたらね、私も戦闘モードのときがある!!ってことに気がつきまして。(遅いぞ!)

 

 例えば、外に食事に出ますよね。そのとき、戦闘モードなんですよ笑。

 テーブルが汚れてる!とか、ドンってお皿置いていった!とか・・・あげだしたらきりがないくらい目に付くので(苦笑)。

 まあね、一応プロでやってるんだったら、プロらしい対応をするべきだ!と思います。けれども、この人も人間なんだよな〜っていうことを私は忘れてしまっているんですよね。職業人という生き物として見ていて、人間だと思ってない。(ちょっとオーバーかもしれませんが)

 

 やっぱり、人間ですからね。疲れていたら機嫌が悪くなるしね。 

 

 みんな怖くなると心臓がバクバクするんですよね。目の前にいるその人も、たとえ無礼なことをしようとも、そんな存在なんだと思うことができれば、戦闘モードを解除できるかもしれないです。

 

 ほんのすこし、そんなふうに こころを向けてみることができれば、世界はもっと幸せになるんだろうな🍀

 

 健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!

手放そうと思うと手放せない

 ごきげんななめです。本田陽彦です。

 

 もやもやと心の中に暗雲が見えます。これは雨雲でしょうか。それとも雷雲でしょうか。ゲリラ豪雨が来るやもしれません。

 

 心に生じたこの厄介な存在。知ってますとも、あなたの正体。ふふふ(魔女みたいな顔)。

 

 手ごわいんですよね。手放したいです。手放したくてウズウズしているんですけど笑

 

 ・・・うん、それがなかなかできない。

 

 手放そうと思うと、余計に握りしめちゃうことって多いんです。そんな時は手放すことを一旦止めてみるのもいいかもしれません。

 

 手放す努力をお休みして、雨雲の遥か下の方にある小枝をつかんでみたら・・・?(自分に言ってる笑)

 

 そうすれば、その瞬間、手放せなかったアイツを自然と手放すことができています。

 

 ふ〜〜汗

 

 今日も愉しく過ごせますように。

 

 健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!

健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!のわけ

 ごきげんよう。本田陽彦です。

 

 遠い昔のことが思い出されるときってありますよね。昼寝から目覚めたとき、私はそんな体験をしました。

 

 ある人の、過去のたましいを感じたとでもいえばよいのでしょうか。

 

 人間ってね、こころのずーっと奥のほう、もっともっと、ずーっと奥のほうに隠れてる何かがあるような気がするんです。

 ほんとに小さくって、とっても繊細で、触ることもできないほど傷つきやすくて。でもすごく愛おしくって・・・そんな何か。

 

 その、たましいとでも言えばいいのか、その何かは、ときに泣いていることがあるんです。人間見かけは元気にしているように見えても、その何かは悲しそうな顔をして、泣いている。

 

 私、それに気がつかなかったんだな〜って。ごめんね・・・って。そんなことが突然私のこころを満たしてきました。

 

 過ぎ去ったときのことを考えてもこころを汚すだけなのかもしれません。でも、もしそのとき、気づいていたとしたら、私はどうすればよかったんでしょう・・・

 おそらく私は抱きしめて、温めたいと思うでしょう。でも、こわれちゃうかもしれません。マザーテレサならそうするでしょうか・・・。

 

 う〜ん。もし、今その状況に出くわしても、私何したらいいかわからないです。わからない。

 

 もしかしたら、何かしないと・・・って思う必要はないのかもしれません。何か出来たら、そして、元気になってゆくのを見届けることができたら、それは一番だと思いますけどね。

 

 ブッダは言います。

Mātā yathā niyaṃ puttaṃ

āyusā ekaputtam anurakkhe,

evam pi sabbabhūtesu

mānasam bhāvaye aparimāṇaṃ. || Sn_I,8.7 ||

 

母が、自分の息子、独り子を生命を以って護るように

そのように、一切の生き物においても

無量の心を育むべきである。 (筆者訳)

 

 「こころする」「こころを向ける」「慈悲を送る」「慈悲を念ずる」・・・これだけでいいのかなって。

 

 あなたのこころの奥にある何か、それはあなたのこころそのものかもしれないし、よくわからないけど、私はあなたに慈しみをもってますよ。ただ、それだけで、いいかもしれないです。

 

 私の敬愛する方が、三ヶ月位前でしたかね、こんなことをおっしゃいました。

 「あー、なんとかしなきゃ」って思い込んでいたときのことです。

ご自分が善かれと思っても、このようなとき、何もしないのが賢いです。
言葉以上に大切なものがございます。
謙虚な心で、心を込めて慈悲を念じてください。
慈悲喜捨の心を育ててください。

 

 その選択肢は私のなかになかったです。ほんとに。ありがたかったです。

 

 いつも最後に、「健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!」と書いてます。これは、そういうわけなんです。

 

 言葉が届かなくても、この世にいてもいなくても。気持ちが伝わらなくても、相容れなくれも。私は慈悲喜捨をもってここに、ただ、いる。

 

 こんなことを言ってる私もいろんな人を傷つけているかもしれません。たぶん、気づかないところでたくさん傷つけているでしょう。そこに「ごめんなさい」といつも思っています。

 

 ニュースをみると悲しい出来事ばかりが入ってきます。そんな悲しみばかりの世間が私は嫌いです。でもそれは私自身を嫌いだということかもしれないなと思います。

 

 それでは今日も善い1日でありますように。

 

 健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!

 

怒り狂う日もまた救いあり

 ごきげんよう。本田陽彦です。

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 人間、生きているなかで、怒りで心が真っ赤に染まることがあります。苦しいけれどもやめられないのです。しかも怒って何が悪い!!!!!!!!!と開き直ります。

 

 でも、よくよく考えると、怒り狂ったところで怒りの対象が直接的にどうにかなるわけではないんですよね。もちろん怒っているときはそんなこと微塵も思いませけれども。

 

 結局、自分自身がヘトヘトになってしまって、あ〜具合悪い・・・とへたってしまいます。そこで、ようやく落ち着いたところで、自分で怒りを起こして、その怒りによって自ら苦しんでいたことを痛感します。

 

 これ、何回やってもきりないです。怒っているそのときは気持ちがいい気がするから笑。「あーやっちまったぜ」と反省するのですが(そのときはね)、また時間が経つとやっちゃう。「わかっちゃいるけどやめられない」、ほんとにこれです。

 

 「渇愛」っていう言葉があります。喉がカラカラの人が水を求めるような、強い欲求の衝動をいいます。初期仏教では、のちの十二因縁の第一、無明と同じレベルに位置付けられていたものです。人間の根源的な衝動がこの渇愛です。

 

 

 怒り狂ったあとで思うんです。渇愛を滅することって難しいなあ〜と。精進せねばならんな〜と。でも無常なんで(もちろん世俗的な無常ですとも)すぐその心を忘れてしまうこと多し(汗)

 

 でもでも、この無常ゆえに、救いもあるんですよね。ずーっと怒ってたり、後悔してたりってことはないんですよ。どこかで、それも終わって、次の何かが生まれてきます。

 

 無常だから、あるとき、渇愛が滅することもありうるわけで。

 

 あー、無常・・・と嘆くこともいいです。とことん無常を観じた先にブレイクスルーもあるでしょう。

 

 でも、疲れてきたときには、無常ゆえに変わることができるし、そこに救いがあると観じてもよいかもしれません。

 ここ最近まで、私にはこの景色が見えていませんでした。でもね、この観念の選択もあるんだな〜って知ってから(これは理知的な理解というよりも、ある種の情動を伴った理解ですね)、ちょっと世界が好きになったような気がするんです。

 

 もちろん、これも無常なんで、気が変わることは普通にあるんですけどね〜笑

 

 ま、いっか〜

 

 また暑くなるみたいですが、みなさまお元気でお過ごしください。

 

 健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!

秋思

 ご機嫌麗しゅう。本田陽彦です。

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 涼しくなりましたね。朝は窓を開けるとひんやりとした風がすーっと抜けてゆきます。季節は変わっています。

 この季節、なんとなく寂しいです。「古より秋に逢うて寂寥を悲しむ」と申しますが、まさにそうだなあ〜とじみじみ思います。竜禹錫の「秋思」にでてまいりますね。(横に読んで下さいね)

 

  自古逢秋悲寂寥

  我言秋日勝春朝

  晴空一鶴排雲上

  便引詩情到碧霄

 

 以前はですね、この「悲しむ」というところを目の敵にしていまして笑。どういうことかと申しますとね、「悲しむ」っていうのは、「お前さん(私)が勝手に悲しんでおるのじゃろう?」と思っていた(思い込もうとしていた)んです。おそらく、多くの方が「は?なんでそんなことになるの?」とツッコんでいらっしゃると思います。・・・が、これは長らく私の中で問題となっておりました、はい。

 

 私のなかでは、この「悲しむ」といことをしているコイツ(私)が、勝手に悲しんでいるのであって、目の前に広がっている感じられる世界をわがままに解釈した結果、「私は悲しい」といことになっている。このことは長い間、克服されるべき問題だったのです。つまり、「悲しい」と分別する前の段階に本田陽彦はとどまっていなければならぬ!と努力していたわけでございます。

 

 しかし、今日朝起きて清風に当たっておりますと、寂寥を感ずることすらそのままに観ぜらる。それでよいではないか、と思えたのです。うん、いいです。悪くありません。

 

 もしかすると、しばらくして、いや、やっぱりダメだとか言い出すかもしれませんけれども笑。まあ、それはそれとしてよいかな〜。

 

 少し、力が抜けてきた気がします。もっとも、これまでは力の入っていることに気がついていませんでしたから。力が抜けて、力の入っていたことを知る。そんなものかもしれませんね。

 世間はもう、夏休みが終わりましたね。みんな宿題終わったかな。宿題は終わらないけど休みは終わってしまった人も多いのではないでしょうか。

 

 人生、済ませると決めた宿題だけは終わらせて、人生を終えたいものです。

 

 それではみなさん、よい休日をお過ごしください。

 

 健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!

枯れてたっていいじゃないか!

 ご機嫌麗しゅう。本田陽彦です。

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 私は中学生のときサックスを習い始めました。

 

 入学してブラスバンド部に入部したのはよかったのですが、マーチングバンドでしたので土日のたびに練習があり、詩吟のコンクールと重なってしまうことが多かったんですよ。

 

 そこで、私は詩吟の師匠に畏れながら申しました。「詩吟をやめたいです」と。すると会長先生に電話をしなさいね、とおっしゃいました。

 またまた私は畏れながら、会長先生にお電話したんです。「今は部活をしたいので、詩吟をやめたいです」と。すると先生はこのようにおっしゃいました。

 「これまで続けてきたことと、これから始めること。どちらがあなたにとって大きいことか、考えてごらんなさい」

 私は「すみませんでした」と電話を切りました。

 

 私が中学に入る前、とある吹奏楽団の演奏会に父と行きました。そのときのテナーサックスがすごくカッコよくって。ぜったいコレやりたいな〜と思っていました。そして入学してブラスバンド部に入ったんです。

 ぜったいテナーサックスがいい!!と思っていたんですが、なんとマーチングバンドだったものですから、できるだけ軽い楽器じゃないと疲れてしまうだろう・・・と思って一番小さいソプラノサックスがいい!と先輩に言ったんです(ぜったいテナーといっていたチビてるてるはどこへいったやら笑)。

 そしたらソプラノサックスってのは難しいからお前みたいなガキンチョには無理だよ(もっとやさしい言葉だったと思います)って言われて、それじゃあ、間をとってアルトサックスで!ってなったわけです。

 

 まあ私は単純な人間なので、アルトサックスを吹くと決まれば、アルトが一番かっこいいわけです笑 あんなに惚れ込んでいたテナーサックスを見ても、「なんかネックがグニャっとして不恰好だな。アルトはシュッとして、無駄がない感じでいいよな」と思うまでになっておりました。あははは。

 

 その入部当時はですね、楽器をもたせてもらえないんですよ。マウスピースを与えられて、それを死ぬまで吹きまくる笑。タンギングの練習をする。120のテンポのメトロノームに合わせてタンギングができるようになったら「楽器つけていいよ」となるわけです。今考えれば、なんておバカなことをやっていたんだと思います汗

 

 そんな苦行を経て、ようやく楽器を首からぶら下げられるようになりました(涙)!!

 

 ・・・と、その頃に、上記の吟詠コンクールとマーチングコンテストの日程がかぶるという事実に直面するんです。ようやく手に入れた(当時は眠れないほど嬉しかったです)楽器を吹いていたいじゃないですか!?ねえ?

 

 それくらいサックスが好きでしたからね。詩吟を選択するのは辛かったですよ。

 そんな私をみた両親が、「個人レッスンを受けて、サックスを続けたら?」といってくれたんです。すごく嬉しかったです。こころからトキメキました💕そこで私はサックスの先生に弟子入りすることになります。

 

 ・・・前置きがなが〜〜〜くなりまして、申し訳ありません汗

 

 そのサックスの先生から私が言われた一言が、今日の表題に関わってまいります。

 私の音を聴いて、「枯れてるね〜〜」とおっしゃったのです。枯れてる、と。・・・??

 当時中学生です。若さ溢れるお坊ちゃんでした(初対面時、先生はボーイッシュな女の子だと思っていたそうです)。そんな私に(もちろん音色がですがね、)「枯れている」とおっしゃるんですよ。・・・そして親しくなるにつれて、性格もわかってきますね。そして「やっぱり枯れてるね」と。おっしゃいました笑。

 もちろん良い意味で「枯れてる」ということだそうです(あやしい)。

 

 私は小さい頃から自分よりもずっと年上の方々に育てていただきました。人生の大大大先輩から。人の世の酸いも甘いも経験してきた皆さんから、大事に大事に育てていただいて。本当に幸せです。

 そんな先輩方をみて育った私ですので、どことなく枯れてきたのかもしれません。もちろん、良い意味で、ですけどね。早熟しているというのか、なんと申しましょうかね。

 

 枯れていますとね、同世代となかなか合わないことが多くなるんですよ。小中高、若者と1日の大半を過ごしておりますと、なんとなく居心地の悪さを感じていたんです。

 う〜ん、私の居場所はここじゃない気がするな〜って。

 

 こうやって書きながら思い返してみると、私、幼稚園のときからそうだったみたいです。詩吟を始めたのが小学二年生ですからね。もしかすると、生まれた時から枯れていたのかもしれません。

 

 ある人は私に言いました。「もっと若い世代と関わった方がいいよ」と。確かにそうなんです!

 またある人はこう言いました。「そんな年寄りばっかと付き合ってて楽しい?人生もっと遊べる時に遊んだ方がいいよ」と。そうかもしれません。

 わかるんですよ、みなさんが言ってくださることは大変よくわかるのです。

 

 でも私ですね、こんな「枯れた私」を結構好きみたいなんですよね笑

 

 なんか、いいですよ笑、枯れてるのも。なかなか妙なるかな笑

 

 うむ、いい感じで結びがきましたね(自賛)!

 

 写真は祖母が育てているヘチマです。ここまでいくと食べるにはさすがに成長しすぎていますが(汗。(私は食べ頃すぎてるんですかね・・・)

 

 こんな私でも仲良くしてくださっている若いみなさまに感謝いたします。そして今後ともよろしくお願いいたしますとともに、新しいお友達の方も大歓迎で募集しておりますので、どうぞよろしくお願いいたします!

 

 健やかで、危険がなく、心安らかに、幸せであれかし!