自分のために存在すること

皆さま、ご無沙汰しております。外はすっかり秋の音ですね。

長らく放ったらかしにしていたこのブログ、ふと思い立って更新することにしました。正確には、更新する心の余裕がふと生じたので更新することにしました。

ここのところ忙しく駆けずり回っており、ほとんど自分のお世話のために時間を使うことができていなかったのです。休みなしに動いていると、どうしても疲れは溜まるし、ちょいとイライラもするし…。

殿ご乱心でござる一歩手前の状況であったのですが、今日は夕方時間ができたので散髪に行くことにしました。これまでなんとなく髪を伸ばしていたのですが、師匠に「長い髪はきたない」と言われてしまい苦笑、そこまで言われたら切らないわけにはいかないということで、スッキリ短髪にしてきました。

鏡の前に座ってカットしてもらう自分の姿を見て、「あら、私自分のために時間を使っているじゃん!」と嬉しくなりました。いいこといいこと!

私の髪型については賛否ありまして、長くしていたら「それオシャレなの?切りなよ」と言われ、短くしたら「長い方が私は好きなのに〜」と言われ。笑 明日私を見かけたら「あら、新しい髪型も素敵ね」と言った後で、お心の内をお伝えくださいね。やくそく。

では、今日も健やかで幸せであれかし!

尊い友人たち

ここ数週間抱え続けている重たい感覚。

ズーンと重たい何かがまとわりついているような、流れていかない感覚。

なんとかならないものか…。

 
 
 
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何か音楽を聴こうかと思ってApple Musicを開いて「作業BGM」とか打ち込んでみる。

ちゃかちゃかした軽快な音楽が流れ始める。

いやいや、これじゃない笑。

 

なぜか「マタイ受難曲」と打ち込んでいる。

ミッション系の大学で学んでいた時のことを色々思い出す。

原理主義的だった心が徐々にひらかれていった時間。

魂をかけて探究する生の人たちに出会って、真理を感じた時間。

その信念のライトサイドもダークサイドも見た時間。

 

そっか。私にはそんな時間と関係性があったのだった。忘れていた。

いや覚えているのだけれど、いつも意識の前面近くにあるわけではない。

しかし折に触れて、思い出される等身大の尊い友人たちのこと、彼らとの交わりの時間。

祈ることについてたくさん教えてもらった。私は念ずることについて語ったものだ。

学問知を包み込む、実感を伴った学びの時間であった。

 

空を見上げる時間。空に意識を向ける時間。

手を合わせる時間。無言でこうべを垂れて祈る時間。

真理の表現に耳を傾ける時間。真実について語る時間。

無心に祈る時間。存在を晒し合う時間。

 

全てが掛け替えのない時間であった。ありがたい時間であった。

 

このように深く感謝できる過去があり、人々があるのは幸せなことだ。

 

尊い友人たちの中には、私が出会ってからこれまでの間にさまざな困難を経験された方も多い。

大切な存在が天に召された方もいらっしゃる。信仰に支えられているとはいえ、お辛いはずである。

私の知る彼らは、それでも歩みを止めることはなかった。辛さを抱えながら、逃げることなく前に進み続けていらっしゃった。

 

私も、そんな方々と一緒に学んだのであるから、そう交わることを許していただいていたのだから、頑張らないわけにはいかないだろう。

書きながらそんな気持ちがじわじわと湧いてきている。

 

私に力を与えてくださるのは、やはりそういう人たちの存在であるのだろう。

こう書いている今、ちょうどコラールが流れてきた。涙が出てくる。

 

どうか、尊い友人たちが、健やかで危険がないように。心やすらかに幸せでありますように。

 

苦しみをアイデンティティにしないこと

私は幸せになろうとしているのか。そう意識するようになったのは昨年末からである。

 
 
 
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私は「一切皆苦」であるとか「人生とはそんなものだ」とかよく言うのだが、これは紛れもない真理であると今も思う。「苦」なんてものは、わざわざ遠くまで探しにゆかなくても、そこら中に溢れている。

例えば、身体感覚をじっと見つめると、徐々に「微細な感覚」として感じられるようになってくる。どんなに心地よい状態であったとしても、その感覚は「微細な痛み」あるいは「微細な苦しみ」のようなものとして見えてくる。ああ、些細なことですら「苦」なのであるなあ…と思ったものである。生老病死が苦であるというのは、やはり紛れもない事実である。

しかし、苦というのは、「苦」のそれ以上それ以下でもない。ただ苦であるという事実に過ぎない。それはそういうものである、というだけで、規範ではない。つまり、一切皆苦であるのであって、一切皆苦でなければならないというわけではない。

ところが、私は「修行」という営みを遂行してゆく上で、そうした「修行する自分」を保持してゆく上で、どうやら「苦」を規範として、また自らのアイデンティティのようにしてしまっていたようなのである。

ある方から、「本田さんは幸せになろうとしていない」と言われてハッとしたのであった。苦しみを抱える存在としての自覚によって、それを原動力として行に向かう。それはよいのだが、自分から進んで苦しみを抱え込むことはない。ましてや、わざわざ遠くまで探しにゆかなくてもよいのである。幸せであってもよいのである。そして先日、ある学生から「明るいスピリチュアルケアもあっていいと思う」とコメントをもらった。ああ、染み出してしまっていたのだ…と思った。

せっかく「陽彦」という名前をつけてもらったのである。わざわざ「陰彦」になる必要はないだろう…苦笑。まあ、10年以上もかけて作り上げてきた傾向性はそう簡単には抜けきれないだろうが、少しずつ、幸せになってゆきたい。そう思うのである。

健やかで危険がなく、心やすらかに幸せであれかし!

美しい魂に触れたあとの風景

 少し前、ご縁があって一人の青年と知り合った。

 本当に「たまたま」出会ったのだが、この出会いは私にとって非常に重要な意味を持って現れているように感じられる。

 彼はいつも、真正面から「愛」を語る。真正直に、愛を告白するのである。「はれたほれた」という類の愛ではなく、実存的友愛である。

 
 
 
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 青年は過去に様々な困難を経験し、未だにそれらと闘っていることを話してくれた。彼は“いろんな”経験を受け止めながら、ある時は噛み締めながら、またある時はたじろぎながら、それでも今日を生きているのである。

 彼は音楽によって世界に投企している。その根底には、これまで彼を救ってくれた他者との奇跡的な出会いへの心からの感謝があり、彼らへの恩と愛の表現としての音楽を追究したいという願いの声によって世界を振動させているのである。

 ライブの語りで「“あなた”が好きだ」と彼は言う。“あなたたち”ではなく“あなた”なのだ、と。彼の「愛」は聴衆一般に向けられたものではなく、彼の歌を聞いている実存としての他者に開かれている。

 そこにはリップサービスの類は一切感じられない。真正直に言葉を紡いでいる。そこに紡がれる言葉は、飾られることもなく、言葉の行く先を占うこともなく、ただ真っ直ぐに放たれるのである。

 私は彼の語りを聞く度に動かされる。自分自身が固定しなくなる。内側から何かしらの動きが現れようとするのを感じる。ある時は自分自身の言葉が恥ずかしくなり、話したり書いたりするのが嫌になる。またある時は無性に対話をしたくなる。そしてまたある時は、生きとし生けるものに対して慈しみの心が湧いてくる。

 彼は私よりも若いけれども、凄みを感じる。彼の歌は、テクニックを上手に使いこなせて上手い、というより、存在の背後からじわじわと染み出してくるような、何かそういう凄みがある。

 他者を純粋に想い、感謝し、愛し、大事にすることができる青年。その至純さに心を打たれるほどには、私は何かを失いつつ大人になってきたのかもしれない。

 ご縁に感謝。合掌。

GWは全然ゴールデンじゃない

ごきげんよう

今年のGWは全然ゴールデンじゃない。

今年のGはぎっくり腰のGだ。

だからご機嫌もよくはない。

しかも人生初。

初めてのぎっくり腰。

腰は要。

皆さんもお大事に。

 
 
 
 
 
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寒空の下のポタージュ

今日は思い立って、夕方から父とジェットボイルを連れて散歩に出かけた。

久しぶりに近況を話し、寒い寒いと言いつつ公園のベンチでお湯を沸かし、スープを飲んだ。

オリオン座がとても綺麗に見えた。

 

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黄昏時の菜の花

 

明日をめがけて眠ろう

自分自身の苦しみに出会い

人々の苦しみに出会い

それが自分の苦しみのようになるとき

生きていく力がなくなりそうになる

 

そんなとき大切な存在と深い心の水位で交わり

この世界で何とか淨らかな道を歩んでゆこうと確認し合えたとき

同じ方を向いて深めてゆこうと手を取り合えたとき

明日をめがけて眠る力が湧いてくる

 

幸せになろう幸せにしよう

守ってゆこう支えてゆこう

縁ある人の抜苦与楽のために

明日という日を生きてゆこう

 
 
 
 
 
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